偽虜囚
一陣の冷風がロイの背筋を撫でて去っていった。その風はまるで、真冬の風のように冷たく感じられた。
「だから、僕一人で行くって言ってるじゃないか!」
その直後、しんと静まり返った会議室の中に、ひときわ高く平手が響いた。
皆が皆呆然としてこの軍の主と、その主の頬を打った人物を凝視する。
「あなたはいったい、今まで何を見てきたんですか」
静かな声だった。つい今ほどまで頭に血を上らせていた王子とは正反対に、そしていつもの穏やかな彼女ともまるで正反対に、冷徹すぎるほどの声が静かに響く。
ファルーシュが一人敵陣に飛び込み、ロイがファルーシュのかわりに捕らえられてから、もう何時間かが過ぎていた。
その間、ファルーシュの軍はソルファレナの門前から一歩も動いてはいない。
ソルファレナを包囲し、あと一歩のところまで来ていながら、ファルーシュは全く動こうとはしていなかった。
ダハーカの会議室の中で、延々とファルーシュとその他の者たちの言い争いが続いていた。
「いいですか、王子。あなたはアルフェリア軍の主です。いえ、むしろもはやこの国すべての主と言ってもいいでしょう。そして、ロイ君はあなたの影武者です。彼の存在は、今、このときのためにあったと言って過言ではない。貴方が成すことは、彼を助けることではなく、今はこの国の民を助けることなんですよ。もしあなたが彼を救いたいと思うなら、戦場で勝ってください。こうして、ソルファレナの街を目の前にしてぐずぐずととどまっているのではなく、そして今日のように貴方一人で敵陣に飛び込むのではなく、あなたと、そしてこの軍の皆で、ソルファレナを取り戻してください」
打たれた頬を片手で押さえながら、ファルーシュはルクレティアの台詞に歯を食いしばる。
自然とその手が震えた。
「でも……。それじゃ、ロイが見殺しになる。ぼくじゃないとわかれば、ロイは……っ」
ファルーシュは自分の目を覆った。
その目に、ロイが映った。
ロイと、それからギゼルが。
ギゼルのサーベルがロイを一刀に切り捨てるところが。
もう遅いのかもしれない。あれからもう何時間も過ぎた。
もう、ロイが自分ではないと知られ、切り捨てられているかもしれない。
そう思えば尚、ファルーシュの心はずたずたに切り刻まれそうなほどに痛む。
何もかも、自分のせいなのだ。
ルクレティアの言葉を無視して、リオンやカイル、ゲオルグたちを振り切ってまで一人で敵陣の中に突っこんだのも、そのせいで、ロイが囚われたのも、なにもかも、考えなしの自分のせい。
ルクレティアの言葉もわかる。
今はただ一人の仲間の命よりも、ファレナの民の命の方がずっと重いのだということも、痛いくらいにわかる。
それでも、ロイは、ロイだけは、失うことに耐えられないのだ。
「王子」
ルクレティアが静かな声でファルーシュの名を呼ぶ。微塵も優しさなど感じさせなかった先ほどの言葉とは違って、僅かにその声音に悲しみが滲んでいた。
「もし、王子がロイ君を助けたとして、貴方は他の似たような境遇の兵士達に、なんと言うおつもりですか? 他の、ゴドウィン軍の捕虜となった者たち、その家族。彼らになんとおっしゃるつもりですか?」
どきっと、一瞬胸が詰まった。
「ルクレティア、でも……!」
「明朝、全軍をもってソルファレナに再突入いたします。よろしいですね」
有無を言わせないルクレティアの台詞だった。
ファルーシュは黙って唇をかみ締め、爪が肉に食い込んでしまう程に、拳を握り締めた。
解散の声が辺りに響いた。
夕暮れが迫っていた。
傾いて行く陽が、まるでロイの金色の眼のように思えた。
フェイタスの緩やかな流れが、船着場の小船たちを穏やかに揺らす。
空はもう、暗灰色の幕に包まれて、輝く月もきらめく星も、なにも彼を見張るものは無かった。
彼はそれでも慎重に歩みを進めた。
あちらこちらに篝火が見えた。
敵前であるのだから、当然の物々しい警備。
しかし、彼らに見つかるわけには行かない。
ファルーシュは、この軍の主だった。
敵前で、彼らを放ってどこかへ行くなど、本来なら言語道断であるはずなのに。
「それでも、ロイを、見捨てるわけにはいかないんだ……」
ずきりと胸が又痛む。
これは、もはや軍主としてではなく、王子としてでもなく、ただ一人の人間としての感情だけ。ロイを失いたくは無い。その想いだけ。
「ごめん……」
明日の朝、もし自分が戻ってこれなければ、きっと城内は大混乱に陥るだろう。
それでも、ファルーシュはロイを選んだ。
だが、篝火が視界からなかなか消えてくれない。当然だろう。ほんの少しの隙も見せてはいけない状況なのだ。
イライラと、ファルーシュの焦りが募った。こうしている間にもロイがどうなってしまうか、わからないというのに。
はやる心が、強行突破を思い描いたそのときだった。
突然背後から何かがファルーシュの口をふさいだ。
ファルーシュはとっさに身をひこうとした。だが、それよりも先にたくましい腕がファルーシュの腕を捕らえた。
「しっ、お静かに」
はっとファルーシュはその顔を振り返った。片目を瞑って、口元に人差し指を当てた、こんなときなのに茶目っ気たっぷりの笑顔を見せた騎士がいた。
「カイ……」
カイル、そう名を呼びかけた傍らに、ファルーシュはもうひとつ小柄な影を見つける。こちらもにっこりといつもの笑顔を見せたミアキスがいた。またまたファルーシュは驚いた。
「王子、こちらへ」
ミアキスが差し招く。
近くの木々が茂る林の方へと。
そしてそこに、ファルーシュはまた別の二つの影を見つけた。
「ゲオルグ、リオン!」
そこにいた二人を見つけ、ファルーシュは一層眼を見開く。特にリオンはたしか、ルクレティアから自分を見張っているようにと言われて、ガレオンと共にダハーカのファルーシュの部屋の前で寝ずの番をしていたはずではなかったのか。
だが、彼らは小船に乗っていた。
ゲオルグなんかは、その手に既に櫂を握っていた。
「王子がなさることなんて、みんなお見通しなんですよー」
「そういうことだ。お前がロイを一人で助けに行こうとするだろうということはわかっていた」
「だからこうして先回りしたって言うわけです」
「みんな……」
「王子、私は王子と共に参ります」
リオンがそっと、ファルーシュの手に己の手を重ねる。
「女王騎士たるもの、どんなことがあろうと、王子と一緒に行きますよー」
「ルクレティアの台詞は当然ではあるがな。だが、お前がそれでも行くと言うのなら」
「私たちはどんなときでも王子の味方ですぅ」
じんわりと、涙が浮かんだ。
今更ながら、なんで自分はこんなにも愚かなのだろうと、後悔した。自分がとても恥ずかしかった。そして、彼らの優しさがあまりにも嬉しかった。
「王子、行きましょう。ロイ君、取り戻してきましょう」
ファルーシュは力強く頷いた。涙で視界はかすんでいたが、それを拭い去って。
「みんな、ありがとう」
カイルとゲオルグが櫂を漕ぐ。小さな小船が、深い闇の中ひっそりと、闇に埋もれたソルファレナへと、漕ぎ出した。