偽虜囚
東から近づきつつある夜明けが、ソルファレナ上空から深い闇を追いやっていく。
深い霧のかかった空に次第に目覚めた小鳥たちの姿が飛び交い始め、さえずりによるさえずりの呼応があたりに広がっていく。
そんな彼らを見て、ファルーシュは想った。彼らが呼びかけ、応えるように、自分も彼に呼びかけることができたなら。
きっと、彼は必ず答えてくれるに違いないのにと。
「ファルーシュ」
かさりと乾いた葉ずれが聞こえ、それに続いて低い声が自分の名がよぶ。
ぱっと期待のまなざしを向けるも、近づいてきたゲオルグの厳しい表情に、すぐに気分は沈んだ。
「ロイの行方は、わからない……?」
問いに答えず、彼は首だけを横に振る。
昨夜、勇んでソルファレナに乗り込んだものの、肝心のロイが今どこにいるのか。むしろ、生きていてくれるのかすら、つかめないままだった。
当然ながらリムスレーアにも接触を試みたが、そちらは警備が厳重すぎて、近づくことすら出来なかった。
ただ、うわさだけは街中に流れていた。
王子がとらわれ、女王リムスレーアに屈するように説得されている最中だとか、実はもう殺されてしまっているのだとか、いや、もう仲間に救出され、朝になれば攻め込んでくるのだとか、実はつかまっておらず、つかまっていることを装っているのだとか。
中には、朝になったら公開処刑が行われるのだなどといううわさまであった。
これらは昨夜のうちに、闇にまぎれて城内の兵士たちから得た噂話。だが、誰もがつかまっているのが影武者なのだということは話していなかった。
どちらにせよ、朝はもう間近。
この辺りが限度だと言うことは、ファルーシュにも痛いほどわかっていた。
「他の皆が戻って来るのを待って、戻った方がいいだろう」
ゲオルグのその言葉も、頭ではわかっているのに、悔しくて頷くことができなかった。ここまで皆に協力してもらったのに、手がかりすらつかむことができなかったなんて。
唇をかみ締めてうつむいていると、ゲオルグの腕がファルーシュの肩を抱いた。
「まだ諦めるのは早い。他の奴らが何かつかんでくるかもしれんし、万が一無理でも、ソルファレナを落とすことで、あいつが助かるかもしれん」
慰めの言葉が、胸に染みた。
悔しさのせいで涙があふれそうになった。ゲオルグがファルーシュを抱き寄せる。その腕の中で、しかしファルーシュはぐっと涙をこらえた。
涙は、ロイを助けてからと決めたのだ。
「王子……!」
がさがさといくつかの足音が近づいてきた。
その声にはっとゲオルグの腕から飛び出すと、カイルとリオンが駆けてくる。
「大変ですよっ」
声を殺して息を切らせて近づいてきた二人の表情が、朝霧の中に浮かぶ。それと同時に、起きだした兵士達の賑わいと言うだけではない騒々しさが、街の中に広がっていくのを聞いて、ファルーシュは血の気が引いていくのをファルーシュは感じた。
カイルも、リオンも、青ざめて切迫した表情をしていたから。
人々にまぎれて太陽宮前の広場へと急ぐ。深くフードを被らないといけないのがひどくもどかしかった。
心だけがはやってついていかない足がもつれそうになるのも一層もどかしかった。
それでも、早く、誰よりも早くその場に駆けつけなければと叱咤しながら急ぐ。
途中、怪しんだ兵に呼び止められそうになったが、かまわず駆け抜けた。
このままいれば、ばれるのも時間の問題。
それでも、彼が、そこにいたから。
「お、っとっと」
ミアキスが、ファルーシュをみつけて王子と呼びかけそうになって慌てて口を紡ぐ。
今は女王騎士の姿もせず、常は結い上げられている髪を解いた彼女が、一般の民衆とともに中央の回廊の下にいた。
今朝出された触書を見て集まった民衆は、交戦中だというのに多かった。
城門はぴたりと閉ざされたまま。しかし、その上に明らかに誰とわかる人影がふたつあった。
ファルーシュの軍を目前にしながら、不敵な笑みを崩さない男。
それから……。
ファルーシュは声に出してしまいそうな歓喜を危うく飲み込んだ。。
ギゼルと、兵士に連れられて歩み出たのが、銀糸の髪の少年だった。ややおぼつかない足取りながらも、しっかり自分の足で歩む、橙色の、王族男子の正装をしたロイの姿。
「殿下はようやく決意なされた。女王リムスレーア陛下のため、その命をささげることを!」
喝采が飛んだ。
悲鳴が上がった。
罵倒する声も入り乱れた。
そんな中で、ファルーシュはただ呆然としていた。
今、ギゼルはなんといったのか。
傍らからミアキスが、ファルーシュの肩を支える。
ロイが、一歩前へ歩み出た。その眼差しは、なぜか虚ろに見えた。
「あれは……!」
リオンの声が震える。
さきほどはしっかりとしていると思えたロイの足取りが、奇妙にぎこちないように思えた。
「私に従ってきてくれた者たちへ告げる。我々は、やはり間違っていた。女王陛下の御ためにも、諸君らも一刻も早く投降するよう、私は望む」
妙に虚ろな感情の無い声。
ふらふらと、気がつくとファルーシュは城壁の方へと歩み寄っていた。
膝を突く動作が、人間のようにすら思えなかった。
なぜ?
「ロイ……」
誰かが背後でファルーシュを呼び止めた。けれども、その腕を振りほどいて駆け出した。フードなんか取れたところでかまいやしなかった。
「ロイ!!」
霞む朝の薄靄の中、ファルーシュの悲鳴のような叫び声だけが、辺りに響いた。