偽虜囚
薬を飲まされてからの記憶と感覚はほとんどなかった。
まるで身体が自分の身体ではないようにどんどん感覚が遠のき、意識がおぼろげになっていった。
視界のすべてがぼんやりとして、それがむしろ現実に起きていることが見えているのかさえも怪しかった。半分、寝ているような感覚に近かったのかもしれない。
けれども、眠っているときの安らぎのようなものはまるでなくて、ただ、漠然とした不安だけが周りを覆っていた。
あがきたいのに、あがこうとしても意思が働かない。どうにかして逃れたいのに、どこにも出口が見えない。いや、見ようとしない。自分がまるで最初から存在しなかったのではないのだろうかという恐怖。今にも消えてしまうのではないかというような息苦しさ。
声を上げて叫びだしたかった。
そんなときだったのだ。
あの声が聞こえたのは。
「ロイ!!」
ロイは唐突に意識を引き戻された。
急に開けた視界。急速な夜明けによって霧が晴れていくように、ロイの意識もたちまちのうちに目覚め始める。感覚が戻る。地に足がつく。それと同時に、体中を支配する痛みも舞い戻った。
だが、ロイはそんなことは気にならなかった。そこに、ありえない人影を見たから。
顔にかかる銀色のかつらが邪魔だった。もっとはっきり見たかったのに。
なんで、お前がそこにいる? なぜ、そんなに泣きそうな顔をしているんだ。
「ファルー、シュ……」
苦痛の中で搾り出した掠れた声。一瞬、ファルーシュの顔が泣き笑いになった。
「っ、その者を捕らえよ!!」
ギゼルの声が張り上げられる。
一瞬戸惑いを見せていた民衆と兵士達がわっとファルーシュの周りに群がった。
「ファルーシュ……!」
ロイは自分の周りの兵士を押しのけて駆け出そうとした。だが。度重なる苦痛のために動かない足。それから、背中に焼けるような激痛が走った。
「ロイ――――!!」
再びファルーシュの悲鳴が辺りをつんざく。
ロイは、自身の身体がまた堕ちていくのを感じた。
また意識が急速に閉ざされていく。もう、あんな感覚は嫌なのに……。
最後に見たのは、噴出した赤い血の筋が朝日の中にきらきらと輝いたこと、だった。
群がってくる兵士達。その真っ只中に、彼は落ちてくる。突きつけられる槍の穂先を見向きもせず、ファルーシュは落ちてくる彼を受け止めようと、めいいっぱい腕を伸ばし、胸も脇もさらけ出して彼を抱きとめようとした。
「ファルーシュ!!」
誰かがファルーシュの背中で叫んだ。穂先がファルーシュの背中を突き破らんばかりに迫っていた。ロイの身体が、あと少しでファルーシュの腕に届こうというところだった。
「王子殿下をお守りするんだ!!」
それはファルーシュも誰も聞いたことの無いただの一市民の叫びだった。あっという間に群がった兵士達が民衆に押しつぶされた。
どさりとファルーシュの腕の中に誰よりも大切な人の重みが舞い戻った。それと同時にあちらこちらで喝采と悲鳴と怒号が沸き立った。
振り返ると、そこはあふれるばかりの怒りと憎悪の渦に包まれていた。ただの市民が手に石を携えてファルーシュを背中で守っていた。
ファルーシュが呆然としている間にゲオルグの剣は敵の兵をなぎ払い、カイルの剣が鮮やかに敵を切り伏せる。ミアキスが舞うように両手の小太刀を振るえば、敵は一斉に引き、リオンの長巻はファルーシュに指一本触れさせまいと気迫に満ちて誰も近寄らせなかった。
銅鑼が鳴り響いた。
堰を超え、竜馬騎士団、ビーバー隊、そのほかあらゆる味方の船が、フェイタス河を埋めつくさんばかりに遡り、ソルファレナの街に迫ってきた。
同時にダインとヴィルヘルムの騎馬隊が大通りを怒涛の勢いで駆け上り、その後ろからボズとガレオンの率いる重槍歩兵部隊が騎馬隊にも劣らない勢いで追従する。
皆がそこにいた。
ファルーシュを支えてくれる者たちが。
一人でがんばっているつもりだったファルーシュに、そうではないと身をもって示す。身を挺してファルーシュをかばったロイと同じように。
「ファルーシュ、行くぞ!!」
ゲオルグが両脇から迫る相手を一刀で切り伏せて叫んだ。
他の女王騎士を見渡しても、一様にファルーシュにしかと眼差しを向けていた。
ファルーシュはその腕にロイをきつく抱きしめた。血は依然流れ続け、このままでは危険なことは明らかだった。だが。
「ロイのこと、頼む。シルヴァ先生と、ムラードのところへ!」
リオンとミアキスにロイを託して、ファルーシュは毅然として立ち上がった。
「皆に告ぐ! 我、ファルーシュ・ファレナスはここに在る!! 今こそ、邪悪の根源たるゴドウィンを打ち倒し、再びファレナを解放するとき!! 皆、我に続け!!」
地鳴りのような歓声が上がった。
味方と民衆の最先端で、ファルーシュは駆け出した。
たちまちのうちに門は破られた。ゴドウィンの兵はあっという間になぎ倒され、崩れ、散っていく。
ソルファレナは一瞬で落ちた。
ザハーク、アレニアは倒され、ギゼルはファルーシュ自身の手によって、打ち倒された。
民衆は歓喜し、街には花吹雪が舞った。
ファレナはようやく、自由となった。