CherieRose ...1
10.
学生の本分とは勉学に励むことである。そのことに対して否やを唱えるつもりなど毛頭無いが、この学院では然程成績が重視されていないというのもまた一つの事実であって、その場合、自分のような人間が居るに相応しい場所などそうそうないのだと、キクは軽く溜息を吐いた。
いくら天気が良いとは言え、やはり部屋を飛び出して来たのは間違いだった。寮から出てしまえば、ゆっくりと心を落ち着けられる場所を見付けるのは非常に難しいことなのだから。講義中ならば図書館に籠っていても大丈夫だろうが、読書に夢中になるあまり時間を忘れ、気が付いたら注目を浴びている……などという事態は二度と御免だ。
「やはり、この髪が原因ですかねぇ……」
この国では非常に稀な、黒髪。特に金色の髪を持つ人間が多いこの学院では、己の身分を主張しているのも同じだった。勿論、母親譲りのこの髪が嫌いだというわけでは……ない。ただ、ひっそりと陰で暮らすことが出来ない今の状況が、不満だというだけで。
単位は危ういが講義に出る気にもなれず、かと言って食堂や談話室にも足を運ぶことは出来ない。そうして仕方なく足を運んだのは学院の敷地内にある、密会や逢い引きにくらいにしか使われることのない一角だった。一応東屋はあるが、先述した理由からいつ誰とうっかり顔を合わせてしまっても困るので、人一人の体重を支えるには十分な大きさを持った木に登る。
昔の自分ならば、こんな活動的なことはしなかった。しようとすら、思わなかっただろう。その変化を齎した相手を思い浮かべ、先程とは異なる種類の溜息を一つ。本当に、どうして彼があんなことをしているのか、さっぱり理解出来ない。少なくとも、初めて出会った時の彼ならば、こんなことにはなっていない筈なのだ。
この数年で、彼の身に一体何があったのか、それを窺い知ることは出来ないけれど、それが決して良いものではないということくらいは分かっていた。その原因が、誰にあるのかということも。――だから好きになれない、なんて、そんな大人気ないことを言うつもりはないけれど、少しだけ面白くないのも、事実ではあった。
「折角自然に囲まれているというのに、これではいけませんね」
読みかけの本も持って来たし、ノートと万年筆もある。何かの作業に没頭するにはもってこいの環境なのだから、それを活かさなくては。そう考えて、早速取り掛かろうとした時だった。彼らが、現れたのは。
「あれは……」
男子が四人に、女子が一人。服装が乱れている男子は、確かラッセル家に名を連ねる人物だった筈だ。そして、その相手と言い争っているのが――
「……クラリスさん?」
ツヴィンクリ家の養女にして、バッシュの妹。バッシュとは昔から何かと顔を合わせていたから、彼女とも面識がある。耳を澄ませば、彼女が此処に連れて来られた理由も分かってしまい、このまま知らないふりをするのは人道に反することになる。
しかし、相手は四人なのに対し、此方は孤立無援。腕に全く自身が無いわけではないが、あちらにはクラリスという人質がいる以上、迂闊なことは出来なかった。ここは人気も無いし学院の中心部からも外れているから、そう簡単に救援を求めることも出来ないし。
さて、一体どうしたものか……珍しく頭を悩ませていると、突然闖入者が現れた。それが誰なのか、小柄な体格と声で、分かってしまった。
「何をやっているんですか、あの人は」
偉そうな態度は、相手を挑発する効果しかない。クラリスが気絶したのは僥倖だが、その結果先程思い描いた四対一の図式が出来上がってしまう。それでも彼の人が不敵に笑っているそのわけが、手に取るように分かってしまう自分が嫌になる。
……多分、このまま放っておけば、事態は間も無く収拾するだろう。対立する二つの力の差は歴然だ。しかし、彼の人が怪我を負った場合、間違いなく悲しむ人間がいて。その人は、自分にとってとても大切な人でもあって。
「忠告くらいは、しますかね……」
もしかしたら相手も、此方の顔を立てて引いてくれるかも知れないし。可能性は皆無に等しいが。
寮から持って来た、中々に値の張る本を構えて、今にも飛び掛かって行きそうな相手に向かって、放り投げる。ガスンッと良い音がした。ついでに呻き声も。
「ってーな、誰だ!」
「騒がしいですよ」
芝生の上と、木の上の視線が、絡まり合う。その途端、とても恨みがましそうな声で名前を呼ばれたが、そんなことは気にしない。
「おい! 人が格好良く決めようって時に水を差すんじゃねぇよ!」
「知りませんよ、そんなこと。喧嘩なら余所でやって下さい」
木から飛び降りたことでグッと近くなった距離から、そう言ってやる。
「キク……もしかして、学院長の弟……か?」
黒髪からではなく、名前で判断するとは、存外ものを知らないわけでもなさそうだ。だからといって、何が変わるわけでもないのだけれど。
「まぁ、そうですね。用件はそれだけですか? 私は他の場所に移りますので、どうか続きをなさって下さい」
「ちょっと待て!」
「何ですか……」
折角こうして剣呑な空気を一掃したというのに、逃げる素振りも見せなかった相手を見返す。クラリスを置いていくのは忍びないが、気絶した相手に何かするほど、彼らも暇ではないだろう。
「多勢に無勢のこの状況を見て、お前、何にも感じないのか!?」
「……だってあなた、さっきまで殺る気満々だったじゃないですか」
自分の出る幕など、最初から無い。一応するべきことはしたのだし。どうしても彼らを懲らしめたいというのなら、クラリスくらいは連れて行くけれど。バッシュには、幾ら恩を売っても足りないくらいなのだ。
「そういう問題じゃない! もしかしてお前、あの時のことまだ根に持ってるのか?」
「別に……?」
「その顔は絶対に持ってるな! いつまでもネチネチと……本当に暗い奴だなお前は!!」
「だから、違うと言っているでしょう!」
出会った時から印象は最悪で、後はもうどうしたって好感度は右肩上がりの筈なのに、顔を合わせればこうして衝突することが分かっている。だから、兄からの命令にも背いて寮に引き籠っていたのだ。
それなのに、本当にもう――
「お、お前ら、この俺を無視するなー! 痛い目を見たいのかっ」
最悪だ。思えば、朝から最悪だった。どうしてだか、フランシスも要らぬちょっかいばかり掛けて来たし。それに加えて、この馬鹿め。
「「煩いっ!!」」
気に食わない相手と声がハモってしまったのだって、全てはコイツの所為なのだ。
作品名:CherieRose ...1 作家名:yupo