CherieRose ...1
13.
そんな顔をするくらいなら、初めからあんなことを言わなければ良かったでしょう……などと言ったところで、それが無駄になることは分かっていた。彼には彼の役目と望みがあって、それは今走り去って行ったあの人のものとは交わらない。それはもう、絶対的なまでに。
「……あの人、泣いているかも知れませんよ」
「そんなに弱い人じゃない」
確かに、喧嘩は異常な程強かった。単純な技術だけならば、そこらの男子では歯が立たないだろう。しかし、言いたいことはそうではなかった。
「それに、あの人が泣いていたところで、俺には何も出来ないんだ」
「アルフレッドさん……」
初めて会った時、彼はいつも笑ってばかりいた。太陽の化身が存在するとしたら、きっとこんな姿になるのだろうと、子供ながらに本気で思っていた。それ程に、眩しい人だったから。周りの人まで、照らすような。
それなのに、今目の前にいるこの人は何だろう。憂いを湛えた青い瞳も、諦めを語る表情も、知らない。この学院に入ってからは連絡を取ることも滅多に無かったから、どんな生活を送って来たのか、何を思って今までを過ごして来たのかも、知らないのだ。
訊ねれば、きっと教えてくれるだろう。例えそれが、全てではなくとも。けれどこうして再会した後も彼が一向にそれを語ろうとしないのは、そうする必要がないと考えているからで、それはつまり、関係が無いことなのだと思われている……ということでもあった。そのことは少しだけ、寂しさを齎す。
「あ、そうだ。これ、君のだろ」
差し出されたのは、万年筆だった。あの時は外されていた筈なのに、今はちゃんとキャップがされている。しかし、重要なのは、そんなことではなくて。
「まだ持っていてくれてるとは思わなかった」
まさか、よりによってこの人の目に触れてしまうなんて。この学院では、兄にさえ気付かれなかったというのに。顔から火が出そうな心境とはこのことかと、有り難くも無い経験をする。
「……も、物持ちが良いんですよ、私は」
「そういえばそうだったね。君は古い本を沢山持ってたし。俺からしてみれば、とても読めたものじゃないけど」
「新しいものを求めるのは、悪いことではありませんよ。だから、こういったものが生まれるわけですし」
この国はとても豊かで、贅沢な嗜好品に溢れている。日々服の流行は変わるし、異国からの珍しいものがどんどん入って来る。そしてその分、自ら次の段階へ進もうという勢いがなくなってしまった。今のままで、充分便利な生活を送れているから。
この万年筆にしても、そうだ。これは、この国で生まれた物ではない。文学が栄え、文人が一定の地位を許されていても、この国で筆記に使われるのは専ら羽ペンだった。以前はこの製法を解き明かし、なんとかものにしようと努力した時期もあったそうだか、細かい作業や材料など、この国には足りないものが多過ぎた。だから今もなお、こうして輸入に頼っている。当然、その恩恵に与れるのは極々限られた人間だ。紙にしたって、異国から技術を仕入れたに過ぎなかった。それが悪いことだとは、言わないけれど。
永遠などない。文明にも、想いにも。いつかは変わってしまうのに。それでも今は、それに気付かずにいたいのだというのだろうか。仮初めの永遠だと、分かっていて。
「さて、と……悪いけど、キク、これから学院長室まで付き合ってくれないかい?」
「兄上にわざわざ報告を? この程度のこと、あなたの権限でどうとでもなるでしょう」
一体何の為のパラディンですかと問えば、俺はまだ見習いらしいから……と返って来た。そうして蘇る、泣きそうだったあの人の後ろ姿。嗚呼、成程。妙に納得する。あの人もまた、そうなのかと。
「それなら構いませんよ。どうせ暇ですし」
「……あのさ、こんなこと俺が言えた義理でもないだろうけど、ちゃんと講義は受けた方が良いと思うんだぞ」
「学歴が無くても生きて行くことは出来ます。私にそれを教えてくれたのは、あなたでは……?」
万年筆を掲げて笑ってみせれば、途端に困ったような顔。そういうつもりで言ったわけじゃないんだけどな……という反論は黙殺する。あの時に言われた言葉が嬉しかったことは本当だし、それがあったからこそ今の自分がいるということもまた、本当だったから。
「でも、彼らはどうします? 下手に何か工作でもされたら厄介ですよ、それに、クラリスさんもあのままというわけにはいきませんし」
「……どうせバッシュはいないんだろう? 女子寮に連れて行くと面倒なことになるから、やっぱり保健室かな」
見たところ怪我など無いが、この騒ぎでも目を覚まさなかったことを考えるとそれが一番無難だろう。彼女のことは彼に任せて、散らばってしまった私物を集めることにする。幸い此方も、大した損傷は無いようだった。本はぶつけた所為で少々背表紙が歪んでしまったようだが、元々図書館の本ではないので問題は無い。
作品名:CherieRose ...1 作家名:yupo