CherieRose ...1
06.
何時如何なる理由があろうとも、淑女たるもの決して走ってはならない。大声で話すことも望ましくない。何故なら美しくないから。
フランシスに、専属の家庭教師に、学院の教授に、何度も口を酸っぱく言われたこと。本気で耳にタコが出来るんじゃないかと心配すらした注意事項。それをアッサリとかなぐり捨てて、セシェルは中庭を全力で走っていた。
教授に見付かったら容赦なく罰則を与えられるだろうし、見付かったのが監督生だったとしても、果たして警告だけで済むのかどうか。けれどそんなことは、セシェルにとっては実にどうでも良いことで、些末なことでしかなかった。寧ろ、彼等に遭遇出来るのは幸運だとすら思う。
「クラリスちゃん……!」
大切な友達が、連れ去られてしまった。しかも、複数の男子生徒に。いくら普段から楽観的なセシェルでも、クラリスが無事に帰って来れるとは思えない。
あの時、もし彼等に立ち向かっていたのなら、事態は変わっていただろうか。セシェルはそうは思わない。この学院では、見ざる・聞かざる・言わざるは極々当たり前のことだ。事実、あの場で彼等に立ち向かおうとしてくれる人は一人も居なかった。
本当に、だから貴族というのは嫌なんだと、今まで幾度となく思ったことを、再びセシェルは思う。どんなに綺麗に見えたって、中身がこんなに腐っているのでは意味がない。例えばジャンヌのように、中にはその地位に相応しい人間も居たが、そんなのは一握りでしかなかった。
自分は特殊だから、所詮は田舎出の成金貴族でしかないから、余計にそう感じるのかも知れない。この世界では、それが『普通』なのかも知れない。けれどそれならば、自分は一生涯異端者だと後ろ指を指されても構わなかった。
……と、そう心の中で吠えることは出来る。しかし実際にセシェルがしたことはと言えば、友達が連れ去られて行くのを成す術なく見送り、今現在こうして何とか助けを得ようと走っているだけだ。
助け。そう、助けが要る。それも早急に、強力な助けが。
フランシスは論外だ。顔も良いし優しいが、強いのは口喧嘩だけだ。全く以て頼りにならない。かといって、此処では他に頼れる人が居ないのも事実だった。でも何もしないなんてことは出来ない。
誰か。誰でも良い、腕力でも権力でも良いから、彼等に太刀打ち出来るような人間が欲しかった。今すぐクラリスを助けてくれると言うのなら、喜んで罰則だって受けよう。今更内申点が下がったところで、どうせ困るような成績ではないのだから。
そう、強くセシェルが思った時だった。
「やっぱり、野生児を淑女に仕立て上げるってのは無理があったか?」
そんな、嫌味ったらしい声が耳に飛び込んで来たのは。
「まゆ……アーサーさん!」
セシェルの振り返った先に居たのは、人を皮肉った顔が学院一似合う人間、アーサー・カークランドだった。セシェルはフランシスを通じて一度だけしか会ったことはなかったが、その個性的過ぎる眉毛は忘れようにもそう簡単に忘れられるものではない。
「……で? 何でお前はそんなに急いでんだ。淑女たるもの、足音も声も荒げない――この学院の鉄則だろ」
「そんなことはどうでも良いんすよ! 早く誰かを見付けないと、クラリスちゃんがっ」
「クラリス嬢が、どうかしたのか」
こんな奴に構っている暇は無い。見るからに貧相な体型だったし、偉そうな態度ではあるが偉くはないのだ。セシェル程ではないにせよ、それでも地方の貴族には変わりなく、しかもこの学院に転入して来てから一月しか経っていない。月日だけで言うならセシェルの方が先輩だ。つまり、そんな人間が他者より上の地位にいる筈もなく、よって、セシェルの希望には掠りもしない。
だからこそセシェルはさっさとアーサーに別れを告げて、もっと有益で強力な人間に助けを請いたかったのだが、その望みは叶わなかった。アーサーが、強くセシェルの腕を掴んで放さなかったからだ。
「ちょ……っ放して下さいよ! 今はアンタに付き合ってる暇は無いんです。事は一刻を争うんです!!」
「なら、尚更俺に詳しい事情を説明しろ。それが賢いやり方ってもんだ」
はっきり言って、セシェルはアーサーが何を言っているのかも、何を言いたいのかもさっぱり分からなかった。それでもセシェルが最終的に話すことを決めたのは、何故だかアーサーがとても真剣に思えたからだ。
「私とクラリスちゃんがお昼を食べてたら、いきなり男子生徒がクラリスちゃんを北塔の方に無理矢理連れて行っちゃって……確か、お兄さんに用があるとか何とか……」
「どんな奴だった? 名前は分かるか?」
今直ぐクラリス達を追い掛け、クラリスを無事に救出してくれさえすれば、セシェルは後はどうでも良かった。それでもこれは、アーサーには必要な情報なのだろう。確か初めて見た顔ではなかったと、普段大して使われていない頭をフル稼働させる。……そう、あの顔は、入学して直ぐにわざわざフランシスが中等部まで足を運び、こいつらには絶対に関わるなと教えてくれた人間の一人ではなかったか。名前は、確か――
「ラッセル! ラッセル侯爵家の人でした!!」
「ラッセル……嗚呼、彼奴か。成程な……分かったセシェル。お前はもう良いぞ。後は任せろ、俺が何とかする」
パッと手を離し、北塔の方へ向かおうとするアーサーを止めたのは、セシェルの焦った声だった。
「何とかって……アンタ一人でですか!? 無理に決まってるでしょう! せめて監督生とかが来るまで……っ」
「何悠長なこと言ってんだ。女子生徒が一人連れ攫われたんだぞ? バッシュの手前、手荒なことはしないだろうが、それでも無事に帰ってくる保証は何処にも無い」
「で、でも相手は侯爵家に人だし、取り巻きだって良い噂は無いってフランシスさんも言ってました。親の権力を笠に着てやりたい放題で、アーサーさんだって何をされるのか分かんないっすよ!」
誰かが傷付くのは嫌だ。それが知ってる人ならもっと嫌だ。例えそれが、数える程しか言葉を交わしたことのない、いけ好かない相手でも。
それなのに、こっちは本気で心配しているというのに、アーサーは笑うのだ。お世辞にも頼もしいとは言えない、それでもこれ以上言葉を重ねるのは無駄だと思い知らすように。大丈夫だ……と。
「下らない心配なんかするな。極端に言えば、俺はこういったことをする為にこの学院に居るようなもんだからな。……まあ、正直不本意だが、それでもこれは間違いなく俺の義務だ」
アーサーの言っていることが、半分どころか十分の一も理解出来ない。監督生でもないくせに、一体どんな義務があるというのだろう。けれどきっと、アーサーはこれ以上のことは自分に話すことはないのだろう。
そんなことばかりを敏感に肌で感じ取ってしまい、結局セシェルはまたしても自分から遠ざかって行く背中を見つめることしか出来なかった。
作品名:CherieRose ...1 作家名:yupo