CherieRose ...1
08.
やはり、自分のような人間がこの学院に籍を入れるべきではなかったのだ。未だに強く握り締められたままの手首の痛さよりも数倍の鋭さが、クラリスの胸を激しく刺す。自分には分不相応だと、何度も言ったのに。
それでも、結局この学院の制服を着ているのは、自分がそうすることを彼が望んだからだ。
彼――バッシュ・ツヴィンクリが。
彼には、返しきれない程の恩がある。大切な人達を救い、今こうして自分が生きていられるのも、全ては彼のお陰。
だから、少しでも彼が喜んでくれるならと、この学院に入ることを承諾した。それがまさか、こんなことを引き起こすなどとは、思いもよらずに。
「……私に取り入っても、お兄様との繋がりが出来るわけではありませんよ」
一体何度、この台詞を口にしたか分からない。しかし、これがすっかりと形式化してしまった今、効果が期待出来ないことだけは分かっていた。
自分に近寄って来る人間の大半の目的が、自分の義兄であるバッシュとの繋ぎを期待するものであることを、クラリスは入学当初から良く理解していた。だから、相手に無駄な期待をさせないようにと、何時しか口にするようになっていたこの台詞。
嘘偽りなど何処にも無いというのに、しかし相手はそんな筈はないだろうと必ず不満そうな顔をする。期待外れだと、そう言いたげに。けれどそれは、真実だ。クラリスは決して、バッシュの不利益なるようなことはしない。それを自らに誓っていた。
バッシュが次期当主となるツヴィンクリ家は、爵位こそ持たないものの下手な王族よりも権力がある。この学院への入学が許可されているのも、それが理由だ。
ツヴィンクリ家の名を知らない者は、この大陸は誰もいないとすら言われるその理由。それは、ツヴィンクリ家が大陸一の銀行を運営しているからだ。
客ならば国籍も民族も関係無く受け入れ、自らも決して何処かに属そうとはしない。この国に根を下ろしているのも、この国が大国と呼ばれるからこそ。もしこの国に危機が訪れれば、一切の躊躇い無く他の国に移るに違いない。爵位も拒否し、社交界にも姿を見せようとしないのが、その良い証拠だ。
ツヴィンクリ家の人間は、極力人付き合いなどしない。そんなことをしなくとも、用がある人間は向こうからやって来る。そしてその中から、自らに有益だと思われる人間を見付け出す。
今年高等部の二年になるバッシュは、この数年でその作業を綺麗に終えて、今では試験と出席日数の為にしか登校しない。将来の道が決定されているバッシュにとっては、この学院で教えられる科目に意味などなく、度々外出届けを出しては父親と行動を共にした。
ただでさえ難攻不落と名高いツヴィンクリ家の御曹司が、その上学院にも滅多に顔を出さなくなった。交友関係を築ければ、それは後に大きな力となるだろうに。
そんな風に、大勢の人間が顔を青くして対応に困っていた頃だ。クラリスが、クラリス・ツヴィンクリが、この学院に入学したのは。
「冗談も程々にしておけよ。あんたがお願いすれば、簡単に実現することだろ?」
「……有り得ません」
「へぇ……お前、本当にそう思ってるのか?」
「そう、です……っ」
腕を捻り上げられるが、そんなことは問題ではなかった。人を見下した目、自分が上に立っているのが当然だと言わんばかりのその態度。同じ貴族の筈なのに、こうもローデリヒやエリザベータと違うものなのか。生まれが違う、などとこういった輩は決まって口にするが、いくら生まれが高貴だからといって、品位まで備わるものではないらしい。
「何の影響力も持たない奴が、少しも大切に思われていない奴が、家紋を身につけていられる程、あの家は他者に優しくない……そうだろう?」
「触らないで下さい!!」
クラリスの髪を一房だけ結ぶ、青いリボン。それは一見何の変哲もないただのリボンのように見えるが、実際は光の加減でツヴィンクリ家の家紋が浮かび上がるような作りになっているのだ。そのことに気付くかどうか――それが、バッシュの考えたクラリスに近付いて来るであろう人間達の判断基準だった。
家名だけを気にする人間では、まずそのことには気付けない。それなのに、よりにもよって尤も接触を避けるべき相手に知られてしまうとは。恐らく、いや、十中八九、己の取り巻き達に調べさせたに違いない。
あのツヴィンクリ家の御曹司が、気紛れに自分の妹にしたというその少女は、一体今どんな地位に置かれているのか……と。
「…………ッ」
彼に要らぬ心配はかけたくない。足手纏いになるなど以ての外だ。自分が犠牲になることで彼が幾許かでも救われるというのなら、喜んでそうしよう。心優しい彼のこと、自分一人がどうなったところで、両親への態度を変えはしないだろうから。
男四人に対して、此方は丸腰の女。抵抗すれば無事には済まない。逃げ切れるとも思えない。ただでさえ、この学院の制服は優雅さと上品さを第一に考えて作られたものだから、体を動かすには不向きなのだ。
けれど、例え無謀だと分かっていても、自らの保身の為に大切な人を売り渡すわけにはいかない。それは、他でもない自分自身と交わした約束だったから。
「なんだよその目……気に入らねぇな。自分の立場が分かってんのか?」
息が掛るほど顔を近付けられて凄まれても、恐怖など生まれない。一度覚悟を決めてしまえば、こんなにも平静でいられるのだ。つまらなそうに目が細められようと、そんなのはクラリスには何の影響も与えない。そうして、一体どれくらい睨み合っていたのか。静寂を破ったのは、取り巻きの一人だった。
威嚇するように大きく振り上げられた腕に、本能が身を竦ませる。そんな時だった。
「止めとけよ。女に手を上げようとした時点で、お前の負けだ。第一、そいつはお前らが相手して良いような女じゃない」
その声は、ラッセル家の御曹司のものではなかった。勿論、取り巻きでもない。では誰か。
「お前……アーサー・カークランド!?」
「カークランド……?」
鋭い声が掛けられた方向に、ゆるりと首を回らす。
小柄だが、その双眸は力強い光を湛えているようにクラリスには見えた。決して折れない意志のような。
その光景を最後に、クラリスは意識を失った。
作品名:CherieRose ...1 作家名:yupo