It's My Last Word
「そうよね。でも時間がないのは分かってるでしょう? なるべく、早くしてね」
隣の部屋にいるから、と言葉を残し、永琳は立ち上がると部屋から出て行った。再び静寂が訪れ、呼吸と心臓の音だけが鈴仙の耳に届く。
――さて。
鈴仙は今一度小瓶を見た。永遠がそこにある。それを飲めば永遠に生きることになり、それを飲まなければこのまま死ぬことになる。
若い頃ならともかく、今は死ぬことは怖くない。というより、体が衰弱しきっているために、生きる気力が湧かないといったほうが正しかった。だから、何も永遠に生きたいとは思わない。
――その肉体が若返ることになっても?
若返ったらどうなるのだろう。思考は、脳の働きは若い頃から何も変わらない。この倦怠感は、肉体の衰えからくるものだろう。ならば、これを飲めば今再び生きる活力が湧いてくるかもしれない。もちろん、湧かなかったら損だの何だの言うレベルではなくなってしまうのだが。
どうなのだろう。生きたいのだろうか。寿命の限界まで生きて、それでもなお生きたいと願うのだろうか。
――それは生き物として当然のこと? それとも、ただのエゴ?
生きたいと願うことは、きっと生き物としては当然のことだろう。どんな動物だって本能的には生きることを選択しているのだから。だから、その意味ではこの薬を飲むことに負い目を感じることなどない。
だが、知性ある生命としてならばどうだろうか。生物として当然行うべきものを行ってもいいものなのだろうか。とりわけ、自分は。
悩む。自分は生きてきた。月の戦争から逃げ、幻想郷という平和な世界にやってきて生きてきた。
――一人のうのうと。月の仲間たちを見捨てて。
「――ッ!」
今でもはっきりと覚えている光景。仲間たちが血塗れになっていく戦場。弱いくせに恐ろしい武器を携え、自分たちを殺し、狂わされて殺戮を繰り返した人間たち。それは脳裏に焼きついて離れなかった記憶だった。
鈴仙はそこから逃げ出した。必死に、がくがく震える脚で走り、転がり、血と汗と涙でどろどろになりながら逃げた。ずたぼろの体を引きずって、穢れた地とされている地上に逃げ込んだ。
怖かったから。仲間が死ぬことでもなく、人間の恐ろしい武器でもなく、ただただ死ぬことが何よりも怖かったから。恥も外聞も良心も何もかも捨てて、生き延びることを選択した。
――それでよかったの?
それでよかった。おかげでここまで生きることができた。唐突に誰かに命を奪われることもなく、天寿を全うすることができるのだ。
もちろん、生きているおかげで何度も過去にさいなまれたことはあった。それはその度に鈴仙の心を苦しめた。良心を簡単に凌駕した生への欲求、それゆえの罪悪感があった。
――そう、私はみんなを見捨てた。
今も、そのことを考えるたびに心がズキリと痛む。月の仲間たちの顔はもう思い出せないけれど、それは茨のように鈴仙の心を締めつけていた。
「……なら」
そう、ならば。生よりも死を選択すべきなのだ。仲間を見捨ててまで、それほどの罪を犯してまで自分は生を選んだ。ならば咎人は、そろそろ死刑にかけられなければならない。ここまで生きてきたのだ。過去の罪を、死で清算すべきなのだろう。この生はまさしくエゴ。もしこれ以上生きたいと願うのなら、それは本能ではなくてエゴなのだ。
長く生きた満足感と過去の罪。それを、死をもって終わらせるべきなのだ。
――ウソツキ。
「う……」
けれど。
けれど、それは果たして真だろうか。死ぬことで全てが清算されるのだろうか。
過去の罪悪にさいなまれ、自分はどれだけ死にたいと思ってきたことか。そう、もう何も考えたくないから死にたいと思ったのだ。死は、罪悪感から逃れるための手段なのだ。
ならば、死んでいいのか。生きて、生きて、永遠に生きて、未来永劫その罪悪に悩まされることこそが、鈴仙にできることなのではないのだろうか。
過去犯した罪を償うことなどできない。どれだけ他人のために頑張ろうと、その人の分まで生きると宣言しようと、それは偽善だ。決して、死んだ人は帰ってこない。罪滅ぼしなんて、その人のためじゃない、自分に安心感を与えるためだけのものだ。
罪を清算することなど、できはしないのだ。
「…………」
この蓋を開け、薬を飲むか。そうすれば永遠に良心を痛めることになる。全ての行為が償いになりえないならば、その罪を永遠に覚えていることが、鈴仙にできることなのだ。
――So, dead or alive?
そんなシンプルな命題すら、これほどまでに悩む。
「……私は、死にたいの?」
己に問う。そしてすぐさま、鈴仙はかぶりを振った。自分は自他共に認めるほどの生きたがりなのだから。死にたいと思ったのは、過去を思い出したときだけ。
そうだ、あれさえなければ、自分は何も思い残すことなく死ねるのに。何度悪夢でうなされたろう。何度狂ってしまいたいと思ったろう。あの過去がなく、初めからここで生まれ、ここで育ち、ここで死ねるのなら。それならば、どれだけ幸せだっただろうか。
――あの過去さえなければ、私は永遠に生きていい。
そして、過去は過去なのだ。もう月人など誰一人として地上に来ていない。誰一人として、鈴仙に波動を送る者などいない。ならば、あれは過去。もう捨て去っていい、過去なのだ。この生はもうエゴなんかじゃない。
――なら、飲んでいい。
生きていいのだ。仮にあの過去がなかったらどうするか。あの過去がなく、この薬が自分を若返らせるのなら。
迷うことなどない。自分ほど生に固執した者もいないだろう。
生きたいのだ。死にたいなどと思うはずがない。生きたい。生きたい。
――生きろ。
「あ……」
きゅ、と蓋を取る。別段何か臭いがするわけでもない蓬莱の薬。初めて、それを目の当たりにした。
飲んでいい。生きていい。生きたい。死にたく、ない。
あれだけ罪の意識に悩まされたのだから、もう過去を過去として忘れていいのだ。むしろ自分はここで死んだことにし、不死になることで過去との決別を図ることもできる。本当の意味での、第二の人生。これを区切りとして、新たに生きていいはずなのだ。
――死にたくない、死にたくない、死にたくない。
――だから。
「――ッ! 駄目っ!!」
たんっ、と鈴仙は小瓶を盆に叩きつけた。老いた体とは思えぬスピードであった。
鈴仙は荒く呼吸をする。緊張で不自然なほど脈が上がっていた。そのままの姿勢で、鈴仙は心臓を落ち着かせる。
「絶対……駄目」
目の奥が熱くなる。悔しさか、悲しさか、虚しさか、恐らくはそれら負の感情全てが混ざり合って、鈴仙の中で渦巻いていた。
駄目、駄目、と鈴仙は小さく呟き続ける。
幻想郷は、確かにそういうところだ。過去の罪など、簡単に忘れてしまうほど安らかな地だ。永琳も輝夜も、償いきれない罪を背負っているにもかかわらずあのように楽しく生きている。だから、過去を忘れて永遠に生きることもできるのだ。
作品名:It's My Last Word 作家名:天馬流星