White Night Nightingale
執務室を出てきた少年に、よく出来た後見人の副官が眉宇を曇らせる。普段のエドワードであれば、彼女に対してきっと後ろめたく感じていただろう。
だがその時のエドワードは、普段の彼とどこか違っていた。一度外れてしまった箍は、そう簡単には戻らないのだ。
「ありがとう、でも大丈夫。大佐が送ってくれるから」
「…大佐が?」
少年に続いて出てきた上司が既に帰り支度とばかりコートを羽織っているのを見咎めて、ホークアイ中尉の眉間には今度はしわが寄った。相変わらず、とエドワードはこそりと笑う。
「すまない、中尉。急ぎの案件は片付けてある、後で確認しておいてほしい。…査定の件でね、少し込み入った話があるから、今日はこのまま上がろうと思うんだ」
ついでに鋼のは私が送っていく、とそこまで口にしたロイにも、不審な点は何一つなかった。尤も彼の場合は、箍が外れていたとかそういったことでなく、単純に嘘が巧いのだろうけれど。
「…さようですか、…お車はよろしいですか?」
「そうだな、…空いている車があれば。運転は私がするから、キーだけ頼む」
「了解しました。では、…二番が空いておりますのでどうぞ。明日までそのままで大丈夫ですから」
「わかった。ありがとう。助かるよ」
鍵を受け取りながら言ったロイには、やはり不審な点はなかった。だが、女の勘は恐ろしいというべきか。
「…随分とあっさりされてますのね」
「…なに?」
「いえ。普段の大佐でしたらもっと…、いえ、なんでもありません」
申し訳ありません、と会釈したホークアイを見て、エドワードは対噴出してしまった。彼女の言いたいことを瞬間的に覚ってしまったからだ。
「鋼の?」
「わり、…なんでもね」
「…? まあ、いい。ついてきたまえ」
中尉は、ロイがあっさり帰れるチャンスを必要以上に喜びもせず、素直に言うことを聞いたり仕事をきちんと片付けたりしていたことに驚いていたのだろう。そんなことで驚かれるなんて普段の生活態度が知れようというものだが、それならエドワードだって知っている。およそ普段のロイであれば、もっとはしゃぐか、冗談くらいは言いそうなものなのに、妙に真面目なのだ。これなら、勘の鋭いホークアイには怪しまれても文句は言えない。
だがそれを明かしてしまうこともないと気づいて、エドワードはごまかした。まあ、二人きりになったら教えてやってもいいかな、なんて思いながら。
真っ直ぐに駐車場まで行ったが、そうしてみれば雪はしっかりと積もり始めていた。まだ道路は埋まっていないが、これではスリップくらいはしてしまうかもしれない。
チェーンをはめるから少し待っていてくれ、そう言われて、じゃあオレも手伝うよ、とエドワードは申し出たが、錬金術なら頼むんだがね、と苦笑混じりに断られた。やんわりとしたものではあったが、役立たずと思われたようで少し悔しかった。だが、ロイの手際は大佐とも思えないほどによかったので、まあ確かに邪魔しなくてよかったのかもしれない、とエドワードは思い直すことになる。
運転にしても、ロイは思っていたよりずっと巧かった。いつも乗っている立場だからどうかと思ったのだが、杞憂に終わった。雪の中でも、スリップの危機は一度もなく、エドワードは無事にロイの自宅へと辿り着いたのだった。
しかし車の運転もチェーンの装着だって手際のよかったロイだが、整理整頓は苦手のようで、彼の家は雑然としていた。もっといえば、散らかっていた。
男の一人暮らしなら珍しいことでもないのかもしれないが、それにしても、普段外ではびしりとしている男のそうでない面、というのはやはり意外で、親しみを感じさせた。
工事現場のように足で荷物を踏み分けて歩くのに至っては、エドワードはつい笑ってしまった。ロイでもそんなことをするのかと思って。
それでも、ロイの家の全てが散らかっていたわけでもなかった。
なぜかダイニングらしき部屋だけは、生活感がない、といってもよいほどに片付いていた。だがよくよく見ればうっすらと埃がついているようにも思え、尋ねてみれば、寝室とキッチンと書斎を主な生活空間としているため、それ以外の部屋は使わないのであまり散らかっていない、との答えが返ってきて呆れ、そして笑ってしまった。普通は自分のいるところをきれいにするのではないかと思ったので。だがロイに言わせれば、自分のいる場所に必要なものを持ってきてそのままにしてしまうから散らかるのだそうで、なるほど、それを聞くと非常に納得できた。なんとなれば、自分も同じようなことをするからである。それでよく弟にも怒られる。そう話せば、似たもの同士だ、とロイは屈託なく笑った。
一番居心地のいいのは寝室なんだがね、と冗談なのか本気なのかわからないようなことを言ったロイに、なんと答えたものかとさすがに迷っていたら、だがまあとりあえずお茶の一杯も出さないとな、とロイがキッチンに立ってしまった。何となくついていけば、一応流しはそこそこきれいな状態に保たれている。これなら虫がわくこともないだろう、とエドワードは妙な感心の仕方をした。
「インスタントだが」
正直に言って揃っていないカップを差し出してくる。ありたがく受け取りながら、インスタント以外にも出せるの、とからかってみれば、そんなものがあるわけがなかろう、とそっけなく返された。二つしかない椅子の片方には荷物が置かれていたので、ロイはシンクに寄りかかり、エドワードは椅子に座ってティーバックの茶を飲んだ。味など所詮エドワードにはよくわからない。ただ、温かいのはいいな、とだけ思った。ただそれだけでも体がじんわりと温まる。
「…ところで、鋼の」
なに、と目だけで答えれば、ふ、とロイの黒い瞳が細められる。何となくそれに見とれてしまっていたら、湯気の向うで彼は少し笑ったようだった。
「――抱いてもいいか」
直截な言葉に、さしものエドワードも息を飲み、目を丸くした。
あまりにも唐突過ぎて、照れるのにさえ時間を要した。
「……こういうこと言って馬鹿にされたらいやなんだけどさ」
ロイをじっと見つめたまま、エドワードはぼそりと口を開いた。
「そういうのってさ、…なんかこう、順番って言うか…段取りって言うか…そういうのが普通はあるんじゃねえの?」
尋ねればロイが今度は目を瞠る。そうして、カップをゆっくりと置いて、困ったように笑う。
「…まいったな」
「…なにが」
「君が可愛くてしょうがない」
「………ソーデスカ」
エドワードはわざと音を立ててずずずっとお茶を啜った。元々味のわからなかったものがさらにわからなくなる。だがこればかりはきっとロイのせいだ。エドワードが悪いわけではないはずだ。
「…じゃあ、…」
ロイの大きな手が、エドワードの手からカップを取り上げた。抗議しようと思った唇は、迫ってきた顔に動きを阻まれる。
「――最初からやり直すよ。…好きだ」
こういうときはやはり答えを返すものなんだろうか、そんな少年の些細な疑問は、答えなど待たずに降りてきた唇に吸い込まれて消えた。
「…あんたって自信家」
作品名:White Night Nightingale 作家名:スサ