末期の庭
智謀に関することは、末の弟に任せている。現に元就が普段意見を求める相手は、大抵が隆景なのだ。今だ歳若いものの、父親の智謀を最も理解し判断できる。
だからこそ隆元は余計なことは言わずに首を振る。それは自らの足りない部分をよく自覚しているともいえたが、こういうときの謙遜は癇に障る。
「我はお前に聞いておるのだ。忌憚なく申せ」
苛立ちを隠すことなく口にすれば、申し訳ありませんと己より少し高い背が曲げられる。
「では、申し上げます。……事を急ぐ理由がわかりません」
一旦そこで切って、こちらの様子を伺ってくる。続けよと促せば、少しだけ頷いてすらりと言葉が口をつく。
「豊臣は何国も手中に収めましたが、統治を整える間もなく戦をする。それは勢いを駆るという点で一見利に適っておりますが、国許が落ち着く暇がありません。年貢の決め事も変わりましょうに、その手筈を整える余裕もない」
もちろん豊臣にも、政を預かる者もいる。しかしこうも戦続きで出入りが激しいとなれば、まとまるものもまとまらなくなってくる。
「豊臣は備蓄を油断なくおこなっていると聞き及んでおります。いくら近江国などの米どころを領地に抱えているとはいえ、こうも戦を続けては出て行くばかり。金子がよく続くものです。尾張まで行って、今度は備中まで折り返すなど……」
「毛利では無理な話よ」
「はい」
これまでの蓄えがあったところで、豊臣も急激に大きくなった家。毛利もやはり元就一代で中国の雄に伸し上がった。その間に様々な苦労が少なからずあったのだから、豊臣の現状はある程度予想できる。
だからこそ無謀とも思える、今回の転進。切り替えるようにひとつ頭を振ると、元就は命じた。
「吉川と小早川に使いを出せ。元春と隆景に、こちらへ来るように申しつけよ」
吉田の地を見下ろすように、郡山をまるごと城にしたのは元就の命だという。それは、毛利が大きくなるのと比例している。
海を渡り色々な地に降り立ってきたが、春日山城ほどでないにしても、吉田郡山城かなりいい城だと思う。もっとも元就は、この山城よりも瀬戸海寄りの平地に居城を移す気ではいるらしい。
確かに、吉田の地で中国全土の執政を執るのは何かと不便だ。流通が瀬戸海側に集中している現状もある。陸にあがって1日は要する距離は、毛利の行動を鈍らせかねない。しかも冬になれは、ますます時間を要するようになるのだから。
長曾我部元親が毛利を訪ねるとき、供を連れないのは過分にこの距離に原因がある。元親自身は弩九を使い馬よりも早く走れるが、部下たちはそうはいかない。毛利との信頼関係がそれなりに深まった今、わざわざ時間を無駄にする必要もないだろう。
「よぅ、毛利はいるな?」
街道沿いはともかく、さすがに城下に入れば碇槍を担いで徒歩になるが、目立つ容貌なのは自覚している。当然、元親が城下に現れたことは連絡が入っているだろう。それを前提に、元親も振舞う。
門番は慣れたもので、頭を下げて彼を迎える。そうして次第に案内がつき、元就の館へ通される。今日もまた同じなのだが、珍しく元就の室には隆元もいた。
「邪魔したか?」
地図やら書状やらが床に転がる状況。元就の相手が元春や隆景であればまた別なのだが、さすがの元親も躊躇う。
「よい、終わったところだ。隆元、下がれ」
しかしあっさり元就は元親を招き入れ、反対に隆元はいくつかの書状やらを集め、一礼して出て行く。
「………よかったのかよ? アンタんとこの政の話してたんだろ」
「構わん。貴様が来るまでに済ませる予定であったのだからな」
すぐに小者が茶を運びに来て、元就はその者になにやら走り書きした文を渡す。隆元に、と言い添えられたせいで、やはり居心地が微妙に悪い。
頬を掻く元親の仕草をちらり見た元就は、一度、茶をゆっくり啜ってから鼻を鳴らした。
「米の収穫前後は、それなりにどこも忙しかろう。ふらふら遊んでおる大将がどこにおるか」
「それだけ、ウチの野郎どもを信用してんだよ」
毛利と長曾我部が同盟を組んだのは、豊臣の侵攻が本格化した二年半前のこと。それ以前より、幾度か瀬戸海で衝突することもあったから、付き合いだけならかなりのものになる。
だから、お互いのことなど言わずと知れたところもあるのに、こうしてちくりと嫌味を投げてくる。まったく苛々するのはわかるが、解消のはけ口をこっちに向けてもらいたくないものだ。
「あんただって、隆元に任しちまえばいいだろ。もう大半はやらせてんだしよ」
「国主の責を放棄する気はない。それにすべてを把握せねば、策は練れぬ」
冷ややかな一瞥と続く溜息は、生真面目な男らしいといえばその通り。しかし、猫の額ほどの領地を治めていたときの毛利ならばともかく、中国すべてに目を配るなど無理な話ではないか。
「そうか? 案外、どうにでもなるもんだぜ」
「貴様の勢い任せの策と同じにするでないわっ!」
気楽に言ってやれば、案の定、いらついた声で怒鳴られる。平素において元就が声を荒げるのは珍しいらしく、昔はこの程度でも小者が慌てたように駆けつけてきたものだ。
それはなんとも気持ちが悪い思い出だ。そう、喩えるならば、己の常識が一切通用しない箱庭の中のような小さな世界に入り込んでしまったかのような。
元親にとってみれば、元就との会話で怒鳴りあいにならないほうが珍しいし、本気になればなるほど感情が高ぶるのは人としてごく自然なことだと思う。苛立ちをぶつけられるのは閉口するが、反面、能面然とした元就の相手は御免こうむりたい。
こちらが言い返さずに苦笑を浮かべると、フンと鼻を鳴らす。他国の内政について、とやかくこれ以上言う気はないようだ。それもそうだ、言われても困る。
「それより、もっと実のある話をしようぜ」
じゃれあいも頃合と切り上げれば、元就も居住いを正す。
「……そう言うのならば、貴様は実になる話を仕入れてきたのであろうな」
「まあ、な。いい話じゃねぇが……」
どうせ毛利も仕入れているだろうが、豊臣の動きだ。そう切り出せば、鷹揚に頷かれる。隆元とは内政の話ばかりをしていたとばかり思っていたが、そうでもなかったらしい。筋張った手が伸びて、元就の周囲にできたいくつかの山から地図を引っ張り出す。
「なにを考えているか読めぬわ」
「そうか? 結構単純だと思うぜ…東と読んでるこちらの不意を突きてぇんだろ」
毛利が作った西国の地図は、細部まで細かく記してある。その地図の下あたり、四国と紀伊に挟まれた紀伊水道と、その突き出た半島の向こう側、熊野灘までもだ。
「九鬼水軍を知ってるな」
「織田が抱えておった水軍であろう」
それがどうしたと視線が促す。
「そうだ。そいつが豊臣についた。ちと厄介な相手だな」
豊臣も水軍を持ってはいるし、巨大すぎる軍船に痛い目を見たのは一度や二度ではない。ただ、大きさを伴う船は足回りが悪い。
どうもピンときていない陸の将に、少しばかり肩を竦めて解説してやる。
「豊臣に村上が加わったと思ったらいいんだよ。あの金ぴか船を九鬼が護衛する。ちょっと手出ししにくくなるぜ」