末期の庭
下巻冒頭
備中は高松の沼地に聳える堅城・高松城。撤退した元就率いる毛利軍はこの城に篭城し、その周囲を追ってきた豊臣軍が一重二重と城を囲む。それを見下ろすような形で、近くの山に吉川軍や小早川軍の毛利軍別働隊が陣を張っている。
高松城の天守から望む風景ははっきりとその様子が見て取れて、不愉快極まりない。元就は苛立ちを隠すこともせず舌を打つ。
先の戦いの敗戦による消耗は、毛利側にとっては予想以上にひどいものだった。特に海上戦で手酷くやられた小早川軍は、もはや豊臣水軍を押し返すだけの力はない。長曾我部軍も力不足で、瀬戸海の制海権はあちらに握られた。
陸はといえば、もとより日ノ本中央を制す豊臣のほうが優位である。だが、この沼地の城を落とすには決め手を欠き、なにより背後には毛利の別働隊が陣を構えている。力押しをしようものならば、笑いごとにならない損害をこうむることだろう。
では毛利が有利かといえばそうでもない。豊臣の背後をつきたくても兵力的は不足しているし、外の兵力と連動して城から軍を出そうとしても今度は城を守る沼地が毛利の足を鈍らせる。この高松城は、戦をするにはあまりにも不向きな場所といえた。
お互い、次の決定打が打てぬ状況。そうしてもう一月以上経とうとしている。
かつて元就が体験した篭城戦には勝機があった。しかし今は、負けぬ戦をするだけである。だが、そのためにはもう少し毛利が優位になれるなにかしらの手を打たねばならなかった。
「これをどう見る、長曾我部」
一歩後で同じように眼下の光景を見下ろしている男に声をかける。
「どう、とは?」
「いかにしてこの不利な状況から勝って見せるか、知恵を貸してみよ」
フンと鼻を鳴らして振り返れば、大きな肩を窮屈そうにすくめてみせて男は頭を掻く。
「こういうのはアンタの仕事だろう。それにオレは篭城戦なんてケチなことはしねぇ。それに陸の戦は苦手なんでな」
「……貴様という男は、役に立つのか立たぬのか」
篭城する毛利の城へ、もはや知恵のみしか貸せぬといって潜り込んできたのがこの男・長曾我部元親である。であれば、盤上をひっくり返せるほどの案とはいわずとも、多少は改善させる打開策のひとつやふたつ、論じてみせよというものだ。
もっとも、元親の出す案など大抵が突飛すぎて使えたためしなどない。敵に回せば理屈が通じない面倒な男であったが、味方にしても面倒な男ではあるのだ、この男は。同盟を組んだこの数年で、何度呆れて席を立ったかもはや覚えもしていない。
「ど胆を抜くような大勝をする必要はない。嫌味な勝ち方を出来ればよいのだ」
じわりじわりと相手の出血を誘うようなものを。そうすれば、豊臣も多少は折れる。それで十分、手打ちの話はできる。
「人相が悪いぜ、毛利」
口元が歪んでやがると鼻で笑うその声を無視して、窓から離れる。
「だがよ。毛利がここで踏ん張ってりゃ、東の奴らも黙っちゃいねぇだろ」
その背を追いかけるような声に、当然だろうと頷いて階段を降りる。そうであってくれなくては、困るのだ。
「……長曾我部、文は出せるか?」
ふと思い出して、降りかけた途中で足を止める。しかし外を見たままの鬼は、こちらの問いかけに大げさに肩を竦めて見せた。
「幽霊から文が届いたんじゃ、あいつらは余計に疑心暗鬼になるんじゃねぇか? 毛利健在って情報の方が、俺の文より効果があるぜ」
「恩着せがましく言うな。貴様は四国を盤上に上げたくないだけであろうが」
役に立たぬ鬼め。ひとつ吐き捨てて、今度こそ元就は階段を降りた。
***
一方、高松城を攻めあぐねる豊臣軍ではあったが、周辺の城をいくつか落としているので士気は悪くない。だが、陣屋にて地図を見る竹中半兵衛の顔色はお世辞にもよくなかった。
「少し休んだらどうだ。半兵衛が倒れるのは、我の本意ではないぞ」
心配げに、総大将であり友人の豊臣秀吉が声をかけてくる。それに首を振るのは、もはや日常茶飯事。差し出される湯飲みを受け取りながら、大きな背を見上げる。
「こう言うと君は笑うかもしれないが、僕はね、秀吉。今が一番楽しいんだ」
「楽しい?」
疲労を顔に張り付かせておいて、なにが楽しいのか。怪訝に聞き返されるのは当たり前の話だ。ただ、本当にそうなのだから、零れる笑みをそのままに頷きを返す。
「君の大望を実現するための一歩を刻んでいるんだ。僕の夢は君だ、秀吉。君のために、水軍を手に入れて毛利元就という憂いを絶つ。それを行っている今、休んでいる暇などないよ」
もはや、自分に残された時間は少ない。最後まで見届けられないからこそ、自分自身で決着をつけておきたい毛利の処分を、こうして無理に進めている。
「休めばその分、元就君が何か仕掛けてくるかもしれない。彼は今、戦以外のことを考えていないはずだ。だから、ようやく僕と対等の立場で盤上を動かし始めた。智謀で負けては、君の恥になる。だから、今は僕の好きにさせてくれないか?」
本来、放置してよかった西への転進。それをなにも言わず秀吉が認めてくれたのは、ひた隠している己の状態を知られているからかもしれない。どちらにせよ、この無理は友に対する信頼の証だ。それを裏切ることなど、半兵衛にはできない。
だから、ひとつ咳をして地図に向き直る。陣に詰めていれば大小さまざまな懸案事項が持ち込まれてくる。当然すべてを半兵衛ひとりで処理できるわけでもないので方々に振っているが、その判断だけでもかなりの時間をとられる。戦略について考えられるのは、夜も更けてからがようやくだった。
「……無理をするな」
「わかっている。君こそ毎日、兵たちを慰問して回っているんだろう? すまない」
総大将の慰問は士気高揚にもっとも適切な手段ではあるが、そればかりをさせてしまうなど言語道断。戦に出ているのに、秀吉を戦場に立たせずに何が軍師だ。それに、この戦は時間をかければかけるだけ、あまりよくない結果を生む。
またひとつ咳がこぼれ、肺の奥で嫌なものが疼く。
「待つのも仕事のうちだ。しかし半兵衛、今日はもう休め。命令だ」
誰よりも強く大きな掌が、労わるように背を撫でる。
「だが……」
「毛利ごときがこしゃくな手を打ったところで、我らが負けることはない。そうであろう、友よ」
武力の面で大いに優位に立つ今、ひとりの知略程度ですべてをひっくり返せるほど豊臣軍は甘くない。だから安心して休めという言葉に、仕方なく頷く。
もちろん、この戦で負けるつもりなんてまったくない。ただ勝とうが負けようが、毛利元就を討ち漏らすことだけが怖い。
この思いを口にすれば、たかだか一武将と秀吉は笑うだろう。確かに、毛利の兵力が落ちた今、そのお山の大将ごときになにができようか。
ただ、違うのだ。己が死んだあとに、己が認める智将を残したくないのだ。万が一、毛利が息を吹き返したら? そのとき、誰が毛利の策略を看破する?
一度胸に芽生えた恐怖という名の蟠りは、その首をこの手にするまで消えることがないだろう。
見上げる友は頼らしく、だからこそ彼の行く手を今も、そして百年先までも整え続けたいのだ。それが、己の生きた証となる。