雪椿
「ああ、残念な」
小さな天狗の姿をした妖が、団扇をはたはたと振って嘆いた。
「せっかくきれいに咲いていたものを。あいつ、摘んで行きおった」
「あれが一番大きくて形が良かったのに」
黒い炭団みたいな妖が喚けば、濃い緑色の毛玉のような妖もぶつぶつ言う。
「泥棒め、我らの冬の慰めを盗って行くとはけしからん」
「おお、まことに。懲らしめてくれん」
真っ赤な顔に目が八つある大頭の妖怪は胸を張る。こいつは彼らの中ではちょっとだけ腕っ節が強い。だからすぐこんなことを言い出すが、実際彼が人に危害を加えたところなど見たことが無い。たぶん今度もそうだ。
しかし友は皆、おおそうか、では頼む、うむうむ、任せておけ、いやここはひとつこの俺が……などと煽てたり、請合ったりと賑やかだ。
―――たぶんもう、椿の花のことなど忘れている。
「尚子とは誰かな」
ぽつりとギンは呟いた。
雪が落ちて葉の緑がそこだけいやに濃くなった椿。心なしか悲しんでいるようにも見える。
「思い人であろうよ、あの口調、あの眼差しでは」
皺だらけの丸い顔に黒くて長い胴体の妖が、したり顔でギンに告げる。だがギンは首を捻った。
「思い人……子か」
「いやいや。思い人、と言えば恋人に決まっておろう、あの歳なら」
「恋人?」
「そうさ、好き合う男と女のこと……いやはや、ギン、お前はそんなことも知らぬのかえ?」
「いや、知っている。が、見たことが無いからなあ」
人でも妖怪でもない、ただ山神の憐れみにより人の姿の体裁を持っているだけの身であるギンは、人の社会とは無縁だ。
たまに見かけるのは迷い込んでくる小さな子ども、あるいはその子を探してやってきた父親や母親、そして季節ごとに供え物を持ってやってくる老人たち、それくらいなものだ。
恋人という概念はなんとかわかるものの、実際の理解は極めて乏しい。
「では見てきたらどうだ」
言いさしたのは薄灰色の、膨れた焼餅のような妖。
「見てくる?」
「そうさ。あの男をつけていけば、その尚子とやらに会うところを見られるのではないかな」
「ふうん……」
あまり興味は無い。そんなことをしても面白く無さそうだし。だが灰色餅は続ける。
「それにな、ひょっとするとあの男、その尚子とやらにあの椿を渡すつもりかも知れんぞ」
「なに、本当か」
「ああ。好いた女子に花を贈る男は多い。そうやって気を引き、己を見るよう仕向けるというわけだ」
「勝手な」
ギンは目を細く光らせる。怒っている。
「断りも無しにここから持ち出したものを、知らぬ顔で贈り物にするというのか。酷い奴だ。よし」
「おいおいよせよ、ギン。お前は生身の人に触れれば消えて……あれ」
諌めようとした、白い魚に似た妖が呆れて言葉を失った。
ギンはすたすたと石段を降りると、幣の下がった注連縄がゆらゆらと揺れる鳥居をくぐって走り出したのだ。あっという間に見えなくなる。
「大丈夫か?」
「……まあ、大丈夫だろう」
黒長胴はつるりと顔を撫でて、危ぶむ白魚妖怪に答える。
「そんなに深入りせず戻ってくるだろうよ。ギンはあれでなかなか賢いから」
「でも……」
白魚妖怪は自分も後を追いたそうに伸び上がる。しかしそれを灰色餅妖が止める。
「良い、良い。放ってお置きよ」
「なぜだ? ははあ、さてはお前たち、ギンがあの男を追いかけたくなるよう、わざとあんなことを言ったな。なぜそんなことを」
「なぜってお前、ギンだってそろそろ、男と女のことを知らなきゃいけない年頃だろう。いや、本当ならもっと早かったはず。良い機会だから、見てくれば良い」
「そうだよ。夏にはまた蛍が来る。もっと大人になって。きっと美しくなって。そんな蛍にいきなり会ったら、ギンはきっと困ってしまうよ。少し考えさせておいた方が良い」
黒長胴は灰色餅の言葉に黙って頷いた。
とさり、とまた椿から雪が落ちた。
きゃっと散った妖怪たち。誤って何体かが椿の根方にごつんとぶつかる。とさとさ、はらはらと雪が散って、それでまたひとしきり騒ぎが沸き起こる。
すっかりそれらが収まるころにはもう、誰もギンのことを気にしてはいなかった。