雪椿
「ギン、おいでよ」
黒長胴が呼ぶ。ギンは空に満ちる眩しい光に目を細め、どうしようかな、という顔をしていたが結局呼ばれる方に行った。
「見て。雪解け」
キラキラと輝く水がぽたり、ぽたり、と軒先の氷柱から垂れ落ちている。数日前から気温が上がり、根雪が融け始めているのだ。
雪解けは冬が嫌いなものたちにとって嬉しい出来事。寒さは平気なギンも日が長くなることが嬉しいので、妖たちや小さな神々たちとともに雪解けを祝い、ささやかな宴のようなものを催す。つまりはその催促なのだが。
「あれ、どうしたの」
「何か無くした?」
「それとも心配事か?」
ギンはどこか浮かない顔だ。
灰色餅や白魚たちは心配そうに覗き込み、口々に尋ねる。
だがギンは首を振った。
「いや、そんなことじゃない。つまらないことだ」
「言ってご覧よ」
「うん……」
ギンは珍しく口ごもる。普段あまり躊躇うことがない彼の伏目がちな表情に、妖たちは顔を見合わせる。と。
「椿が、散ってしまいそうなんだ」
「……椿?」
一斉に目をやる。
確かに、雪を被って咲いていた椿の花は、数日前からぽたり、ぽたりと散り落ち始めていた。しかしそれは毎年のこと、今更取り立てて不思議に思うことではない。
「……残しておけないものかな。すこしだけでも」
「どうしてそんなことを思うんだい?」
黒長胴の問いにギンは少しどもりながら。
「蛍に、見せてやりたい」
と答えた。
「蛍に……って」
「蛍は夏にならないと来ないじゃないか」
「無理だよ。二、三日ならなんとかなっても、夏までなんかとても」
皆ぴいぴいと無理を唱える。
ギンは黙って彼らの言うことを聞いている。わかっているけどさ、と言いたげなその横顔に、灰色餅が呼びかけた。
「ギン、それなら絵を描いたらどうだ」
「絵?」
「咲いている椿は無理だ。どうあっても散ってしまう。けれど絵にして残せば、きっと蛍は喜ぶぞ」
「……そうかな」
「ああ」
黒長胴も頷いた。
「良い考えだ。そうだ、どうせならギン、あの椿を摘んでいった男や、その相手の女も、絵にして残しておけば良い」
「そうだね。あれは最近珍しい事件だったものね。蛍に聞かせておやりよ、こんなことがあったって」
白魚も賛成のようだ。
「絵って言ってもなあ、描いたことないし。だいたい何で描くんだ」
頭をがりがりと掻き毟りながら、ギンはのそりと立ち上がった。
「筆がなかったか。ほら、昔まだ禰宜がいた頃に、ものを書き付けるのに使っていた」
「おお、あった、あった。はて、どこにいったか」
「床下に転がっているよ。取ってきてやる」
「紙もあるぞ。障子紙の残り」
墨は無いか、なければ作れば良いのさ、どうやって、木を燃やせばできると聞いたぞ―――
長年人のすることを見てきた妖たちは頭を寄せ合い、知恵を出し合って、ギンの絵描きに協力してくれるつもりらしい。
ギンはふふ、と笑うと森に入っていく。団栗や栗、栃の実など、秋に仕舞っておいたものを取りに行くのだ。春の宴をしなくては。
「そうだ。それも絵に描いて」
夏が来たら、蛍に見せてやろう。
どれほど会いたくても会いには行けない身の自分だが、伝えることはきっと出来る。
想い合う二人の姿に、自分と彼女をつい重ねて見てしまったこと。けれどあの男のように、励ましの手を伸べてやれない自分の身を、寂しいと思ったこと。せめて花を、雪椿の花を蛍にも見せてやりたいと思ったこと。
長い冬の間、ずっとそう思っていたのだと伝えたら、蛍はどんな顔をするだろうか。
ギンはぱっと地を蹴った。残雪と黒い土とが舞い散って、春の訪れを辺りに報せる。そして春が過ぎれば、夏はすぐ来る。
―――蛍、お前にまた、会える