無題if 赤と青 Rot und blau
始まりと終わりとを望む地で。
喉が酷く渇いていて、少ない唾を呑み込む。全力疾走で走り続け、唐突に走るのを止めた瞬間、襲ってくる虚脱感と乾きに似て、ひりひりと喉を焼き、血の味がした。頭がくらくらする。腰にぶら下げた水筒を掴み、呷るが水一滴、零れない。水筒を投げ捨て、プロイセンは目を閉じる。
春の兆しは遠く、空はどんよりと曇っている。イギリスの爆撃によって、美しかった街並みは破壊され、瓦礫と化していた。それを悲しいと憤ることすら出来ず、感情は疲弊してしまった。
戦況は、……もともと、好転するはずもなく悪化するばかりだ。兵力を注ぎ込めば注ぎ込むだけ、損害を大きくしていった。
自分の最大の権限を使い、軍を指揮して、地雷と鉄条網をあるだけ使って市街地を囲むようにバリケードを築き、この故郷に残っていた人々を確保していた港湾と鉄道を使い脱出させた。殆どの兵を護衛に付けと命じ、自分を慕い残ろうとする者も叱り付けて退避させた。今や、ここに残っているのは擦り切れ果てた自分と瓦礫と化した王の山だけだ。
ここで始まり、ここで終わる。
それも悪くはないかと思う。
それにしても、馬鹿なことを考えたものだ。ロシアを征服しようなど、頭がイカれているとしか思えない。北の大国、寒いばかりの氷に覆われた凍土の地。そこを征服し、一体、何を手に入れて何をしたかったのだ?
純朴さの影に底知れぬ怖さを持っていた。勝つ為に帝都であるモスクワすら灰にしてしまうような恐ろしい国だ。その国と戦うということは、混沌とした見えない漠然とした恐怖と戦うようなものだ。敵にすることが恐ろしく、自分は常にこの国との戦いを避けてきた。
列強の末席に加わったとは言え、その中では小国。絶えずフランスとオーストリアとロシアとこの三国にいつ分割されるか解らない状況を虚勢を張り、その虚勢を保つためだけに自分は体より巨大な軍隊を持つしか生き残る術など、あの時代になかった。
弱ければ、食われる。
食われるのは嫌だ。列強に諂い媚び、生き残るくらいなら死んだ方がマシだ。選ぶ道はひとつしかなかった。
プロイセンの最初の王、フリードリヒ一世は俺に王冠を載せてくれた。
次の王、ヴィルヘルム一世は俺に力を与えてくれた。
そして、フリードリヒ二世…、親父は俺に揺るぐことのない自信を与えてくた。
飛び地だった領土を繋ぎ、北ドイツが俺の身体となって、それで十分だった。流浪の果てに辿りつき、自分のものとした地をこれから先、ずっと維持し守っていければそれで良かった。戦争を仕掛けた王も俺も、多くを望んではいなかった。
それだけだったのに、何でこうなるんだよ…。
第一次大戦で、繋いだ地を切り離された。突きつけられた割譲を大人しく飲んだのだ、これ以上、争っても得るものなど何もなかったからだ。…フリッツと辛く厳しい七年間を耐え、手に入れた領土を失っても俺は何も言わなかった。これで、平和が保たれ、ドイツがこれを糧に前を向いて復興していくのなら、それでいいと思った。…もう、どうでも良かったのだ。領土など、もう自分の身から切り離され、「国」という概念は徐々に自分から薄れていった。古い記憶が巡り、流転していたあの頃に自分は戻った。ただ、これからは流れていくだけ。自らこの世界を切り開いていく俺の時代は終わったのだと、悟れば息をするのが楽になった。ポツダムで親父の墓守りをしながら、まだ至らない弟を支えながら生きていこうと。ちょっと前の俺なら考えられないほど、俺の心は穏やかになっていた。…でも、時代の流れはいつの日も無常だ。
あの悪魔が現れてから、望んでいたものは望む端から壊されていった。
そして、俺が愛し慈しんだ子が、あの悪魔に心奪われていく様が怖かった。そして、事態は最悪な方向へ転がっていく。
ドイツは変わってしまった。俺の愛してやまなかった、素直で美しいやさしい子はどこにいってしまったのだろう。
お前は本当にこんなことを望んでいたのか?
自分の国民を殺し、他国の国民を殺め、この世界を征服することを。
こんなやり方で、征服など出来るものか。返ってくるのは手痛いしっぺ返しだ。…お前は先の戦争で何も学んではいなかった。武力による抑圧は反感となり、大きな反発となって自分に返ってくる。…ここにいい例がいるじゃないか。ほら、今まさに俺は坊ちゃんからの手痛いしっぺ返しを食らって死に掛けている。…ったく、気の長い復讐だぜ。遣り方が陰湿過ぎる。やるなら一思いに、俺だけにやってくれりゃいいのによ。
「…上官、大丈夫ですか?」
虚ろに開いた赤に、青が映る。それにプロイセンは瞬く。
「水、飲みますか?汲んできたばかりの地下水ですから、きれいですよ」
水筒を口に宛がわれ、少しずつ注ぎ込まれる冷えたそれにプロイセンは喉を鳴らして、それを飲み干した。
「……へルマン」
混濁していた意識がはっきりと浮上してくる。プロイセンは自分を見つめる青い目に眉を寄せた。
「俺は退避を命じたはずだが?」
「私は最後まで上官にお供しますと言ったじゃないですか。…あなたが一緒に逃げるというのなら、お供しますよ」
「…口の減らねぇ、部下だな。俺の言うこと訊けよ。…本当に死ぬぞ」
「覚悟してますよ。あなたに着いて行くと決めたときに。自分は死んだと思ってくれと家族にもそう伝えてあります」
青年はプロイセンの傍らに腰を下ろし、壁に凭れるとにっこりと笑った。その笑みにプロイセンは呆れたように溜息を落とした。
「…本当に馬鹿だ。…お前は若い。生きて、この国を再生してくれりゃ、それが家族にとっても、俺にとっても一番の孝行だぜ」
「あなたが生きて、そうしてくれるのならそうしますよ。…でも、あなたにその気はないのでしょう?」
青年はプロイセンを見つめる。
「…本当に口の減らない奴だ。…誰に似たんだよ」
プロイセンは零して、負傷し立つことさえ出来ない脚を抱えた。
「…俺は本当に長いこと生きた。いいことも悪いこともいっぱいあった。心底、敬愛できた、親と慕った上司がいた。フランスに敗けて瀕死にあったとき他国に赴き、プライドを捨て、俺の命乞いをしてくれた王妃がいた。こんな俺を慕ってこんなところまで来ちまった馬鹿もいるしな。…俺は「人」に恵まれた。国民は「俺」を本当に愛してくれた。…幸せだった。思い残すことなんてない」
ああ、本当に。俺は「人」に恵まれた。その恩恵を何故、あの子与えてやることができなかったのだろう?…プロイセンは視線を伏せた。
「…「弟」さんのことは気がかりではないんですか?」
プロイセンの擦り切れた血の滲む頬を見やり、青年は言葉を返す。
「…気がかりだぜ。でもな、思ったんだよ。俺がいる限り、あいつは俺に甘えるだろう。そうさせちまったのは、俺だ。俺が完全に「ドイツ」からいなくならなければ、あいつは成長できない。…子どもが成長する過程には、必ず肉親の「死」がある。…失う痛みを知らないから、あいつはあんな風になっちまった」
プロイセンは顔を上げ、天井を穿った穴から覗く空を眺める。
「…あなたがいなくなれば、きっと悲しむでしょう」
作品名:無題if 赤と青 Rot und blau 作家名:冬故