冬の使者きたりなば
早足で歩いて間もなくアンジェリークに追いついたものの、声をかけることなく風にたなびく金の髪を眺めた。
アンジェリークのまなざしはしきりに周囲へと向けられている。
「……ルヴァ様見て、雪虫が」
見渡してみれば辺りには白い綿をつけた虫がふわふわと無数に漂っていた。
ルヴァはその虫を直に見たことはなかったが、アンジェリークが告げた名に聞き覚えがあった。
「綿虫ですね。体に白い綿のような分泌物をつけて、群れ飛ぶ姿が雪が舞うように見えるので雪虫という俗称のある、冬の訪れを告げる風物詩────初めて見ました」
アンジェリークが目を細めて手のひらを上向けた。
小さな雪虫は彼女の手に止まり、たちまちその動きを鈍らせる。
あれっ、という表情をさせたアンジェリークへルヴァが声をかけた。
「アンジェリーク、綿虫は熱にとても弱く、人間の体温でも弱らせてしまいます。素手は出さないでおくほうがいいでしょう」
その言葉に、アンジェリークは己の采配ひとつで生き物の命を左右することへの恐怖を改めて噛み締めた。
慣れてきていた。
ここ最近はただひたすら数値を確認するだけで終わってしまっていた。そこには確かに育まれた命があるはずなのに。
「……ごめんなさい」
呟かれた言葉は白い息に紛れて空へと昇っていく。
それは果たして弱らせてしまった綿虫へ向けてなのか、いつしかぞんざいに扱ってしまった生命への謝罪なのか、アンジェリーク本人にも分からない。
「……アンジェリーク……?」
無邪気に笑っていた先ほどまでの彼女とはまるで別人のようで、ルヴァは心配そうに視線を投げかけた。
「慣れって、怖いんですね」
手についていた綿虫にそっと息を吹きかけているアンジェリーク。
もう一匹も手についていないことを確認すると、その手をコートのポケットの中へとしまい込んで俯いた。
「ルヴァ様、わたし……わたし、やっぱり怖いです。こんな素人がもしかしたら女王陛下になるだなんて」
アンジェリークの金の髪に、風に乗って漂う綿虫たちが次々とくっついては離れてを繰り返す。
美しく色づいた林の中でちらちらと舞う綿虫の群れ。
謂れの通りに初冬の訪れを告げるかのような情景のただ中で、ひとり寂し気に項垂れている彼女を抱き締めてしまいたい、とルヴァは思った。
いつものように優しく励まして立ち直らせてあげなくてはと思ったものの、彼の口からは驚くべき言葉が漏れた。
「……では、辞退するという道もありますよ」
びくりとアンジェリークの肩が揺れたものの、彼女からの言葉はなかった。
ルヴァは絶句したままのアンジェリークへ静かに歩み寄る。
「もしどうしても、本当につらいなら。女王陛下やディアもきっと分かってくれます。ロザリアだってそうでしょう」
アンジェリークの顔に、自嘲的な笑みが浮かんだ。
「そう……ですよね。主星に帰って、元の生活に戻ったほうがいいのかも……」
悲しみに満ちた声色がルヴァの胸に刺さる。
抱き締めてしまいたいという願望が再びルヴァの中に沸き起こり、諦観の境地で目を伏せた。
これから先もずっと、長い長い時間抗い続けるのか。
この気持ちに幾度蓋をしてみせたところで、より一層溢れ出してしまうだけなのに。
「私は────あなたに帰って欲しくありませんけどね」
アンジェリークの頬を両手でそうっと包み込んだ。しっとりとした柔らかな肌質は彼の想像の範疇を超えていて、指先に震えが走った。
「ルヴァ様……?」
突然の行動の意味を図りかねて困惑している様子に、ルヴァは更に言葉を続けた。
「どこにも行かずに、私の傍にいて欲しいんです」
思い切って口に出してしまうと、胸の奥にあった鈍い痛みが跡形もなく消えていった。
その代わりに満たされていくものがある。これを愛と言わずして、一体なんと呼べばいいのだろう。
アンジェリークの長いまつ毛に止まった綿虫たちをそっと払いのけて、そのまま壊れ物を扱うように優しく抱き締めた。
「ずっとね……あなたの唯一でありたいんですよ、アンジェリーク。あなたが女王になってもならなくても、そんなことは私にはどうだっていいんです。ただあなたがいてくれさえすれば、それだけで……」
この期に及んでも尚、こんな告白など迷惑ではないかだとか、断られてしまったらどうしようだとかいう保身が僅かに働いてしまうルヴァ。
そんな感情を知ってか知らずかもそりとアンジェリークが身じろいで、温かな手がルヴァの背に宛がわれた。
優しい温もりに後押しされて吐く息に言葉を乗せる。
「だからお願いです……主星には帰らないで下さい」
囁き程度の音量でようやくそう告げると、抱き締めていた腕に力を込めた。
今のルヴァにとってはこれが精一杯だ。
女王にはならないで、とか。
私だけのあなたでいて、だとか。
あれだけ本の中の色々な世界に浸ってきたはずなのに、沢山の言葉が頭の中で渦巻いているにもかかわらず口に出す勇気はなかった。