報復
これはマクベリーの方でも承知していた。彼がモスクワで何をしていたかは、メイヤー・レポートにも書かれていた。だが非合法工作本部に4年もいれば、それほど具体的でなくとも、何かしら漏れ聞こえたことがあるはずだ。それを聞き出してこいというのが、エドワーズ支局長の指示だった。
「ちょっと耳に入った程度のことでいい。大きな事件もあったことだし、何かあるだろ?」
「オズワルドのことで多数決を取りたいなら、ノーセンコに一票だ」
ザイコフは察しよく答えた。
「確かに奴はうちのネズミだったが、ケネディ暗殺の半年以上前に送金を打ち切られて突き放されてる。あんたのところの長官だって、ノーセンコが正しいことは承知してるよ、たぶんね」
マクベリーは笑って彼の言葉を否定した。
「実はその逆で、コルビー長官はゴリツィン派だ」
「間違っている方が都合がいいからさ」
そんなことぐらい知っていると言いたげな顔で、ザイコフは言った。
「おおかた隠したい真相でもあるんだろう。ノーセンコの証言を正しいと認めたら、真相を隠すのに別のシナリオを用意しなきゃならなくなる」
ザイコフの言う《隠したい真相》については、これまた確かに噂が流れていた。アメリカ政府内部での政権交代を狙った陰謀説である。実際、キューバ危機でフルシチョフに譲歩したケネディには、タカ派の多くが不信感を抱いていた。
マクベリーは黙って考え込んだ。図書館係員の女性の足音が近づいてきていた。近くの書架から、他の誰かのために本を抜き出しているようだ。ザイコフは同席者には目もくれずに熱心に調べものをしているフリをしていたが、やがて彼女の足音が遠ざかっていくとまた口を開いた。
「むろん証拠はない。だが私の知る限り、非合法工作本部でのオズワルドの扱いは、そういう形になっていた。もっとも私がこう言って、あんたたちがあっさり信じるとは思えないけどね」
「まあな」
マクベリーは正直に言った。
「曲がりなりにもゴリツィンは、我々に多大な情報を提供してきた実績で、今の一件に限らず上つ方から支持されている。一方あんたには今のところ、何ひとつ信頼に足る実績がないからな」
「ゴリツィンは病気だよ。一種の偏執狂だ。病気といえば、アングルトンもそうだ。あの二人の気が合うのも道理さ」
ジェームズ・アングルトンはCIAの防諜部門を統率する精力家で、CIAをKGBスパイの浸透から守ることに情熱のすべてを傾けていた。おかげでイギリスにフィルビー、バージェス、マクリーンといった叛逆者が次々と登場した時代にも、CIAからはひとりの裏切り者も出なかった。だが、それにも関わらず、アングルトンは疑心暗鬼に陥っていった。CIAだけが無垢でいられるはずがない、裏切り者は必ずどこかに潜んでいるはずだ、という一種の幻想に取りつかれ始めたのだ。その幻想に、ゴリツィンが強く共鳴していた。
「近ごろCIAでは、Kで始まる名前の男を片っ端から狩り立てているんだろう?」
マクベリーは痛い所を突かれて顔をしかめた。妄想に取りつかれたアングルトンは、確たる根拠もないままにモグラ狩りを始めた。そのスパイの名前はKで始まるという噂が流れ、そういう名前を持つというだけで組織を追われる者が何人も出て、CIA内部の士気は急速に低下し始めているのだった。
嫌なことを言う男だ、とマクベリーは思った。だが、今までの低い話し声をさらに低くしてザイコフが続けた言葉には、真剣に耳を傾けないわけにはいかなかった。
「これは私が非合法工作本部で耳にした、唯一の対アメリカ工作だ。と言っても、断片でしかないけどね。近いうちに亡命者が駆け込んで来るよ、Kで始まる名前の男を教えてやると言って」
「それはつまり…」
「偽の亡命者だ。CIAの混乱に拍車をかけるための欺瞞工作だよ」
大使館内のCIA支局に戻ったマクベリーは、ザイコフが語った欺瞞工作の計画についてパリ支局長のロバート・エドワーズに報告を行った。
ザイコフによれば、偽の亡命者は西側の第三国(彼は特定できなかった)のアメリカ大使館に駆け込み、そのままアメリカ本土ではなく第三国での事情聴取を希望することになっているという。アメリカ本土の《Kで始まる名前の男》に消されることを恐れているという設定だ。その亡命者はCIAの中堅どころにいる誰かを名指しする。すでにアメリカ国外のいくつかの銀行にはその男のための口座が開かれており、CIAが検証すると、あたかもKGBから定期的に謝礼を受け取っているような痕跡が見つかる。他にも様々な偽の証拠が用意され、調べれば調べるほど疑問の余地がなくなるように仕組まれているという。
だが、話を聞いたエドワーズ支局長は疑わしげな顔をした。
「なるほど、確かによく出来た筋書きだが、今じゃCIAの中堅どころに、Kのイニシャルを持っていて、しかもKGBのスパイに仕立て上げられるような目ぼしい人間なんて残ってないぞ。KGBがわざわざ金と時間をかけて、そんな欺瞞工作を仕掛けてくるとは思えんな」
「もちろん俺も、その点は指摘したんです」
マクベリーは急いで言葉を継いだ。
「ところが《庭師》の方では、標的となる人間の本名がKで始まる必要はないと言うんです」
ちなみにこの《庭師(Gardener)》というのはCIAパリ支局がザイコフにつけた暗号名である。彼にこんな名前が付けられたことに、深い意味は何もない。この支局では種々雑多な職業名をアルファベット順にリストアップしてあり、新たにエージェントや協力者を獲得すると、リストの上から順に暗号名をつけていくのである。これはザイコフが知ったら胸をなで下ろしたことだろうが、彼の前に徴募されたエージェントには《ゴミ収集人(Garbologist)》という暗号名が奉られていた。
さて、マクベリーの報告に戻ると、彼の指摘に対する《庭師》の説明は次のようなものだった。
CIAに潜むKGBスパイの名前がKで始まるという噂は、まことしやかに流れてはいるものの、その出所は不明だった。もしかすると誰か信頼のおけるエージェントが情報をもたらしたのかも知れないが、仮にそうだとしても今の惨状を考えれば、その情報はスパイが潜んでいる部署さえ特定できないほど曖昧なものなのだ。それならこの欺瞞工作の標的を、本名がKで始まる人間に絞る必要はないと言うのである。それよりも、名指しされた人物を洗い直していく過程で、その噂にも一抹の根拠があったと思わせるような偽名が出て来る方が、かえって信ぴょう性が高いと言うのだ。例えば、その人物が過去にKで始まる架空名義のパスポートを使用していたとか、彼に対するKGBからの送金口座の名義がそうであるとか…。
「一理ある」
エドワーズは思わず唸った。
「だが、いったい誰をはめようというんだ」
「《庭師》は概要を聞かされて意見聴取されただけで、そういった詳細は知らされなかったそうです」
「で、その亡命者はいつごろ駆け込んでくるんだ?」
「それについても明確な答えは得られなかったんですが、そろそろだと言うんです」