報復
《庭師》が意見を聴かれたのは67年1月、つまり彼が非合法工作本部を離れて合法駐在官に復帰する直前のことだったらしい。その時点で、計画はほとんど完成に近づいているという印象を受けたという。意見聴取の後で計画を修正したり、こちらに送り込む工作員にブリーフィングを行ったりで費やす時間を計算しても、始動するのは近々だろうと言うのだった。
「つまり未来の話だ。現時点では検証しようがない。これでは奴を信用するわけにはいかんが、偽物だと断定することもできんじゃないか」
マクベリーの説明を聞いて、エドワーズは顔をしかめた。
「一応ラングレーには報告を上げるが、疑問符つきにせざるを得ない。まだ《庭師》の中身がイカサマか本物か判断できないんだからな」
「何か現時点で検証できるような情報を要求してみましょうか。直接CIAに関係なくてもSDECEに提供できるようなネタなら、何か持ってるかも知れませんよ」
マクベリーの提案に、エドワーズは頷いて同意を示した。
「そうだな。その方向で指示を出してみるがいい。それでもしモグラの一人でも具体的に教えてきたら、見込みがあると考えることにしよう」
「分かりました」
翌日、普段通りに大使館へ向かったザイコフは、途上の雑誌スタンドの脇に、行方不明の飼い猫を探す手書きの広告が張り出されているのを目にした。A4サイズの紙に、解像度の悪い猫の写真と文字による特徴の説明があり、最後に大きく連絡先の電話番号が記載されている。ザイコフはスタンドの前を素通りしながら、その終わり4桁の数字を確認した。4桁の数字が偶然一致してしまう確率は10の四乗分の1、すなわち0.01パーセントである。しかもそれが飼い猫を探す広告となって指定されたスタンドに掲示されるなどという偶然はまず起こり得ない。秘密の投函所に《庭師》への通信が入ったことを知らせる合図だった。
それから2週間《庭師》からは何の反応もなかった。通信を投函した当日の深夜には、彼がそれを回収したことを示すチョークの印が指定の場所に書かれてあったが、要求した内容に関する回答は未だに投函されなかった。これはやはりイカサマだったか、あるいは自分の立場が急に恐ろしくなって翻意したか。そうマクベリーが疑い始め、エドワーズ支局長が「やっぱりだな」としたり顔を見せるようになった頃、ようやく指定の番号に待望の《間違い電話》が入ったのだった。その番号はジェシカ・ハミルトンが住む職員用フラットで、時刻は午後11時すぎ、公衆電話からの通話だった。
「Bonsoir, Je peux parler a M. Didier?(ディディエ氏をお願いします)」
相手は丁寧なフランス語で訊ねたが、ジェシカは英語で答えた。
「番号をお間違えのようです。ここには私しかおりません」
「これは失礼しました。夜分に申し訳ない」
電話の主は戸惑うことなく、自分も英語に切り替えて詫びを言うと電話を切った。時刻。ディディエ氏。英語での返答内容。全て指定通りの符号だった。すなわち、回答を投函したという合図である。
翌朝、早速ジェシカが回収してきた通信を開いて、マクベリーは口笛を吹いた。予想外に多くのエージェント情報が明かされていた。どうやら《庭師》は2週間をかけて、自分が接近できる範囲のファイルをすべてチェックしたらしい。まず彼自身が運営しているというエージェント2名は実名を挙げてある。そのうちひとりはフランス外務省で上級官吏の秘書をしており、もうひとりはオルリー空港の入国管理官だった。さらにパリ、マルセイユ、リヨンで活動しているKGBエージェント八名については、暗号名と具体的な所属を知らせてきている。そのうちマルセイユの3名については銀行口座が並記されていた。おそらくは報償の授受に利用している口座だろう。架空名義に違いないが、その人物の所属と銀行口座の両方向から特定の人物を割り出すのはそう難しくないと思われた。最後に《庭師》は、これだけ一挙に知らせるのは誠意を示すためなのだから、CIAの方でも自分の立場を慮って欲しいと頼んでいた。要するに、あからさまには手を出すなということだが、これはまあ当然の要求で、マクベリーの方も心得ていた。短期間に10名ものエージェントが検挙されたり使い物にならなくなったりしたら、当然大使館内部に疑惑の目が光りはじめる。
「さて、どうします?」
マクベリーは《庭師》がよこした情報をエドワーズ支局長に示しながら訊ねた。
「とりあえず彼の中身を検証するためにも、これらのエージェントが本物かどうか確認したいんですが、それにはフランス側の協力が必要です。しかし一度に全部を彼らに教えるのは不安な気がしますね。もし《庭師》が本物なら、彼を保護しなきゃいけませんから」
「本物ならね」
エドワーズはあくまで懐疑的だった。
「この情報は質より量で来た感がある。ひとりひとり検証するには時間がかかるが、果たしてその価値があるかどうか疑問だ。この10名が仮に本物だとしても、KGBの方でそろそろ用済みになった連中である可能性は高い」
「では、実名の挙がっている二名に絞って検証しますか?」
マクベリーが言うと、エドワーズは少し考えてから言った。
「その二名は直接《庭師》が関わってるというんだから、慎重に扱った方がよかろうな。フランス側にはしばらく伏せておくとしよう。彼らが職場で何をやっているにせよ、その成果の受け渡しは職場を離れてからのはずだ。我々の方で私生活の方だけ調べれば確認できる」
「空港の穴を放置するんですか? フランスが知ったら怒りますよ」
「我々もまだ知らないことにしておくさ。その代わりマルセイユの3人を、まとめてフランス人に教えてやれ。こっちはどうやら港湾関係だ。その穴をふさぐことができれば、連中も満足するだろう」
その指示に、マクベリーは驚いて抗議した。
「マルセイユだけで一気に3人も挙げさせるってことですか? そんなことをしたら…!」
「そんなことをして反応を見るんだ。いいかね、ジョン。さっきも言ったように、この連中はKGBでもお払い箱にしたがってる連中かも知れんのだ。もしそうなら、検挙しても《庭師》の反応は鈍いはずだ」
「しかしそれは危険すぎます。もし本物だったらどうするんです!」
「だから《庭師》が扱っている二名には手を出さないんだ。マルセイユに対する反応が本物らしかったら、その二名を使って彼を防衛するための手段を講じる。彼にちょっとした功績を与えて、疑惑の目が彼から逸れるように仕向ける」
それを聞いてマクベリーは少し気を静めたが、まだ不安が残った。
「彼に功績を与えるといっても、フランス外務省の秘書官を通じて情報を流すには、フランス側の同意が必要ですよ」
「マルセイユが本物だったら、SDECEも《庭師》の資産価値を認めて協力するだろう」
「まさかフランス人に《庭師》の正体を明かすんですか? 俺は反対ですよ!」
再び抗議を始めたマクベリーを、エドワーズは落ち着き払って制した。
「もちろん連中は知りたがるだろうが、私も彼の正体を明かすつもりはない。それも防衛策のひとつだと言って突っぱねるさ。そこは私が責任持って交渉する」
「分かりました」