報復
3日後の9月16日・月曜日、午後4時。指定したカフェに、そのロシア人はやってきた。通りをはさんだ向かい側に縦列駐車したライトバンの中で、配達労働者風の身なりで居眠りを装っていたマクベリーは、目深に下したハンチング帽の陰からそれを見ていた。ザイコフの姿がカフェの奥に消えた後、さらに5分ほど通りに目を走らせていたが、尾行者と思しき者は見当たらない。どうやらあのロシア人はCIAに協力することを決意したようだ。となれば、次はその決意の真偽を見極めなければならない。
マクベリーはさらに2〜3分そのまま居眠りを装った後、いかにも目が覚めたという風に運転席で伸びをし、腕時計を見ながらバンのエンジンをかけると、クラクションをパパッと軽く2回鳴らして縦列駐車の列を離れた。
そのカフェはほどほど繁盛していたが、まだ9月半ばということもあり、明るい陽光を好む人々は店の前の通りに設けられたテラス席の方に好んで座り、店内の人影はまばらだった。カウンターの前に立ったまま、ビールを飲んで談笑している二人組の男、入り口近くで二人だけの世界にひたっている若いカップルが一組、そして、少し奥の方の壁際に女がひとりいるだけだ。その女はテーブルの上に白ワインが半分ほど残ったグラスを放置したまま、ペーパーバックを読みふけっている。年の頃は30歳前後、見事な金髪に際立った美貌と、大抵の男が《セクシー》と表現しそうなプロポーションを備えていた。だがザイコフがその女に注意を引かれたのは、彼女の様子に何かしら同じ世界の雰囲気を感じ取ったからだった。彼女の座っている席からはカフェの入り口と表通り、そして表からはカウンターの陰になって見えない奥の席が同時に見渡せる。そういう位置で、壁を背にして座り、ペーパーバックを顔の高さに持ち上げて、それを読むフリをしながら視界を広くとっているのだ。これがCIAの連絡員だと当たりをつけて、ザイコフは彼女の前を通り過ぎると、いちばん奥の席、まさに表通りからはカウンターの陰になるその席に腰を落ち着けた。
コーヒーを頼んでタバコに火をつけ、こちらも新聞を広げて読むフリをしながら様子を窺っていると、カウンターの前にいた二人組が例の女に近づいて行って、何やら誘いをかけ始めた。だが女の方は相手を一瞥しただけで肩をすくめると、またペーパーバックに目を戻した。その時、表通りのどこかで車のクラクションが聞こえた。二人の男はなおも女に話しかけていたが、女に完全に無視されて、とうとう諦めたらしい。彼らが店を出て行くと、彼女とザイコフ以外に店内に残っているのは、相変わらず入り口近くの席で脇目も振らずにいちゃついているカップルだけになった。
やがて女はおもむろにペーパーバックを閉じると、それをバッグにしまい、その代わりにタバコを一本引っ張り出して席を立った。そしてザイコフの方にやって来ると、甘ったるい調子の声で言った。
「火を貸していただけないかしら?」
ザイコフは、テーブルの上に出しっぱなしになっていたライターを無言で女の方に押しやると、新聞に目を戻した。火をつけて、ライターをまたテーブルに戻す時、メモか何かを残すつもりだろうと思った。ところが彼女は突っ立ったままで、一向にライターに手を伸ばさない。不審に思って目を上げると、女は右手の指にはさんだタバコを口元近くに維持し、その右手の肘を左手で支えるような格好で、ザイコフを見下ろしていた。目が合うと流し目で微笑み、ライターをあごで指しながら眉をちょっと上げた。
なんだ、この女…
ザイコフは内心で眉を顰めながら、ライターを手に取って火を点け、女の方に差し出した。女は屈んでテーブルに手をつき、差し出された火をタバコに移すと、気取った声で「メルシ」と言って、ようやく離れていった。女が手をついた跡に、小さな紙片が残っていた。素早く手に取って裏返す。
《明日、午後2時半。サント・ジュヌヴィエーヴ図書館、閲覧室。S》
最後のSというのはS局、すなわち非合法工作本部のことだとザイコフは解釈した。パリに赴任する前、そこに4年間在籍していた間に知り得た情報を、思い出せる限り話せという要求だった。ザイコフはその紙片を燃やして捨てると、さっさと席を立ってカフェを出た。
翌日の午後2時半、パリ・ソルボンヌ大学の東側に位置するサント・ジュヌヴィエーヴ図書館に入ったマクベリーは、入り口で係の女性に3冊ばかり希望の本を告げ、閲覧室の奥へと進んだ。その一角には、周囲を書架に取り囲まれて他から隔離されたようになっている閲覧テーブルがあり、一角を先客が占めていた。その男は時々メモなど取りながら熱心に本に目を走らせていたが、マクベリーが丁重に同席の許可を求めると、無言で向かい側の椅子を指し示して了承の意を伝えた。
マクベリーは静かに席につくと、依頼した本を係員が持ってくるのを待ちながら、テーブルの向こうのロシア人を観察した。かの国の最高学府で秀才だった男は、学生の頃から図書館という空間には馴染みがあるらしく、傍らに数冊の本を積み上げて調べものをしている姿はごく自然に見えた。その風情は物静かな勉強家といった感じで、案外これがこの男の、もっとも素に近い顔なのかも知れないとマクベリーは思った。
やがてゴム底靴の、ひたひたという静かな足音が近づいてきて、係員がマクベリーの前に依頼された本を置き、またひたひたと去っていった。マクベリーはその中の一冊を開きながら、低い声で始めた。
「その気になってくれて嬉しいね」
「あの女はなんだ」
自分の本に目を落としたままでザイコフが訊いた。カフェで接触してきた女のことを言っているのだ。
「ジェシカのことか? 彼女はメッセンジャーだ。デッドドロップを介した通信の投函・回収や、緊急な会見が必要になった時の連絡窓口を担当する」
「私にタバコの火をつけさせたぞ。CIAは私をホストにでも使う気か」
「確かにちょっと自信過剰気味だが、まあ大目に見てやってくれ。それに実際、キレイだろ、彼女?」
マクベリーが言うと、ザイコフは興味なさそうに肩をすくめた。
「いずれにしろ、パリの街中であんたに接触するには、女性の方がかえって自然に見えて目立たないし、その方があんたにとっても安全だと思ってな」
「安全ね…」
ザイコフは皮肉な調子で言った。
「まあいい。分かった」
KGB駐在官オフィスに身を置いたままCIAに情報を流す人間に安全などないことは、ザイコフもマクベリーも重々承知している。だが、お互いプロフェッショナルだ。彼も危険を承知で協力することに同意した以上、その皮肉に取り合う必要はないと見て、マクベリーは話を先に進めた。
「それで、早速だが…」
「残念ながら、あんたの興味を引くようなネタはほとんどないよ。私が非合法工作本部に身を置いていたのは一時的な措置だし、中国から戻った直後だったから、もっぱらその方面に関わっていたんだ。それも補助的にね。だから対アメリカ工作について知っていることはほとんどない」