報復
カフェ・ラロンドは左岸地区に含まれるが、ソルボンヌを始めとするパリ大学の集中している地区とはリュクサンブール公園を挟んで反対側にあたるため、夕方のこの時刻でも学生であふれ返るということはなかった。店内はL字型になっており、表通りからは奥の方にある席は見えない。その奥まった一角で、今日の昼すぎにジェシカ扮する旅行者に《不注意にも》ぶつかられた淡いグレーのスーツ姿の男が新聞を広げていた。彼が来ていたことで、マクベリーはひとまずホッとしたが、その隣のテーブルにジェシカと向かい合って腰を下ろした時、無関心を装いながらもザイコフが発する険悪な雰囲気を感じ取って、また気が重くなった。
ギャルソンがやってきて注文を取り、二人の席にコーヒーを運んで来るまで、マクベリーはジェシカを相手に気の合う仕事仲間を装っておしゃべりをしていたが、ギャルソンが再び向こうに行ってしまうと、見かけはジェシカと会話を続けているような様子で、隣席の男に話しかけた。
「今、あんたの方は、どんな状況になってる?」
「そっちこそ、どういうつもりだ」
新聞に目を落としたままザイコフは返事をした。その口元は広げた新聞紙の陰になって、他の席からは見えなかったから、誰も彼らが会話を始めたことに気づかなかった。ザイコフの声は静かではあったが、はっきりと棘を含んでいた。
「たったひと月のうちに一都市に集中して3人だ。もちろん大騒ぎになってるさ。少しはこちらの立場を考慮してもらえるかと思ったが、どうやら私は使い捨てらしいね」
「あんたを使い捨てるつもりなんてない」
「だったらあれは、どういうつもりだったのかな」
「うちは慎重にやるつもりで、フランス側にはあんたからの情報も小出しにした。マルセイユに集中したのは奴らが他を知らないからだ。うちだって、奴らがあんな風に暴走するとは思いもしなかったんだ」
ふん、とザイコフは鼻先で笑った。そんな言い訳など信じていないのだ。
「私の知る限り、SDECEだってそこまでバカじゃない。つくならもっとマシな嘘をついたらどうだ。どうせCIAが私を疑って、わざとやらせたんだろう」
すっかり腹のうちを読まれているらしい。マクベリーはため息をつき、支局長の指示を無視することに決めた。たとえ分が悪くても、真実を話して本音で対応しなければ、彼の不信感は拭えそうもない。
「実を言えばそうだ。すまなかったよ。だが、この世界で生きてきた以上、最初から全面的に信用されるとは、あんただって思ってなかったろ?」
「…まあね」
マクベリーが正直になったせいか、ザイコフの口調は少し和らいだようだった。すると、今まで怒りに隠されていた不安感が、ちらちらと見え隠れするようになった。
「それで? 少しは信用してもらえたのかな?」
「今では全面的に信用してる。実は昨夜、あんたが予告していた亡命者が出たんでな」
一瞬の間を置いて、ザイコフは隣席に二人が座って以来初めて新聞から目を上げた。どうやら彼の方はそのニュースを知らなかったらしい。やがて何くわぬ顔でページを1枚めくると、再び新聞に目を落としながらザイコフは訊ねた。
「どこで?」
「チューリヒだ」
「例の男を教えると言ってきたのか?」
「いや、それはまだだ」
「では、どうしてそれが私の予告した件だと分かるのかな」
「前触れもなく駆け込んできたことといい、アメリカに亡命を希望しながら当面はスイスを離れたくないと主張していることといい、どう考えても異常だからな。アメリカ本土の何者かを恐れていると印象づけたいんだろう。あんたの言ってた通りだ」
ザイコフは小さく頷いた。
「それでどうするんだ? まさか偽物だと言って追い返したりはしないだろうね」
「とりあえず受け入れるふりを装ってローザンヌに匿ってる。これ以上あんたが不利にならないように、慎重に対応するつもりだ。それは約束する」
マクベリーが言うと、ザイコフはまたちらりと目を上げた。
「今さらそんなことを約束してもらっても、こっちの状況は変わらないね。マルセイユの一件で、明らかに情報漏れが疑われている。近いうちにKラインが動き出す」
Kラインとは、ソ連大使館に駐在するKGBの中でも、内部に監視の目を向ける役割を担った部署だ。いわばKGBの中のKGBである。情報漏れなどの疑いがあると動き出して、不審な者を探り始めるのである。今回のケースで彼らが動かないはずはなかった。
「私を使い捨てにしないと言うのなら、そんな約束より現状への対策を聞かせて欲しいな」
「今のままで、Kラインの目があんたの方に向けられるまでに、どのぐらいの猶予がある?」
「あの三人はS(非合法活動)ラインの管轄だったから、先にそっちを探るだろう。その後で我々PR(合法活動)ラインに目が向くとすれば、まあ3〜4週間というところだね」
「それだけあれば手が打てるさ。すでにうちの支局長が動いてるからな」
そう言ってマクベリーは、エドワーズ支局長が約束した《庭師》の防衛策を説明した。ザイコフは注意深く聞いていたが、ひと通り説明が終わるとこう言った。
「ある程度モスクワの耳目を引くぐらいの成果でなければ、Kラインの疑惑の対象から外れることはできないよ。フランス外務省がそこまでの情報を目をつぶって提供するとは思えないね。残念ながらそんな策では時間稼ぎがせいぜいだな」
「じゃあ、どうしろと言うんだ?」
「もともとタネを蒔いたのはCIAじゃないか。さっきそう認めただろう。なのにフランスにだけ損失を押し付けてCIAは無傷じゃ、SDECEだって承知しない。あんたのところの支局長がどれだけ強引か知らないが、フランス側から大した譲歩はもぎ取れないだろう」
「…つまりCIAから何かリークしろと言うのか?」
「正直に言うが、フランス外務省の情報よりCIAに関する情報の方が、うちではインパクトが大きい」
ついさっき全面的に信用すると言ったばかりなのに、マクベリーはまたぐらつき始めた。この男は何を考えているのかと疑いたくなった。いったい運営されているのは、彼なのか、この俺なのか…?
そんなマクベリーの様子を見て、ザイコフは小さくため息をついた。
「こんなことを言うと、また審査のされ直しか…」
7つも年下の相手にすっかり腹のうちを読まれて、マクベリーはちょっと顔をしかめた。イワン・ゴールキンが彼を推挙するにあたって《若いが冷静で頭の切れる参謀タイプ》と評していたのを思い出した。そのよく切れる頭は諸刃の剣のような気がした。扱いを誤れば、こっちが傷つけられそうだ。
「…では支局に戻って、今日挙げられたマルセイユの三人目について、報告を聞いてみてくれ」
なおも黙っているマクベリーに、ザイコフは言った。
「その男とスイスの亡命者の、二件の情報を合わせても、まだ私の要求が過剰だと思うんなら仕方がない。あとはそちらに任せるよ。だが、もし私の頼みを容れて今の窮状を救ってくれたら、後で必ず穴埋めはするつもりだ」
それだけ言うと、ザイコフは新聞をたたんで立ち上がり、隣席の二人に目を向けようともせずカフェを出ていった。
「あなたの言ってた通りだったわね」