報復
ザイコフがいなくなると、マクベリーの向かいで黙って聞いていたジェシカが言った。
「最初はすごく怒ってるように見えたけど、途中から不安そうにも見えたわ。口調は傲岸そうでも、結局CIAで何とかしてくれと言ってるわけよね」
「そうだけど、あんな要求を出してくるとはな。こっちはやっと信用する気になったところなのに」
「あら、私は筋が通ってると思ったけど」
ジェシカはタバコに火をつけると、煙を細く吐き出しながら言った。
「基本的にフランス外務省のネタよりCIAのネタってのは、KGBの価値観として頷けるわ。それに彼の言う通り、今度の件の後始末をフランス側にだけ負担させたんじゃ、彼らも納得しないでしょうね。せいぜい重要度の低いクズ情報を提供して済ませたがるわよ」
「支局長は、自信たっぷりに交渉を請け負ったんだがな。彼の情報が本物だったら、フランス側も防衛策に同意するだろうって」
「そう言えば彼、今日の3人目がどうのと言ってたわね」
「ああ、確かに…。そいつがどのくらいのタマだったかが分かれば、自分の要求も過剰じゃなくなると言いたげだった。とにかく支局に戻って、その件を確認してみるか」
「それにしても、悔しいわ」
「何が?」
「彼、ちらとも私の方を見なかったのよ。若いくせに、憎たらしいったらありゃしない」
ジェシカはその美貌には自信を持っていた。実際、それを利用して老獪な国際テロ組織の大物をたぶらかし、武器の密輸ルートを叩くのに一役買ったこともある。今回、まだ34歳のKGB情報官が相手だと聞かされて簡単に手玉に取れるつもりでいただけに、当のザイコフが自分に何の興味も示さないのが気に入らないのだった。
ザイコフの方も、ジェシカ・ハミルトンがちらちらと艶っぽい視線を送って来るのには気づいていたが、意識的に無視していた。確かに美人かも知れないが、正直にいって御免こうむりたいタイプだ。そこそこ頭もよく、その美貌に対する賛辞を聞き慣れ、思わせぶりな目配せひとつで大概の男は思い通りになると経験的に知っているタイプ。
まだ学生だった頃、何度かあの手のタイプに迫られて断りきれずに付き合い、いつも3ヶ月から半年で振られた。つまらない、というのが彼女たちの共通の理由だった。ザイコフの方では、付き合うと決めた以上はきちんと義務を果たすつもりで誠実にエスコート役を務めたのだが、彼女らはどうやら、もっと情熱的な献身を期待していたらしい。4〜5回その同じパターンを繰り返した揚げ句、ザイコフはようやくその手の女性が自分には向かないことを悟った。
今にして思えばそれも道理で、当時は彼女らをきれいだと思ってはいたが、それ以上に心が動くということがなかった。女性に対して心が動くとはどういうことかを、ザイコフはブダペストで初めて知った。あれ以来、女性の方から美貌を振りかざして近づいて来られると一気に白けてしまうのだが、その手の女性たちにはザイコフの外見が手頃なアクセサリーに見えるらしい。北京でも何度か同様のタイプに言い寄られた。さすがに自分の置かれた状況に鑑みて、外国人、特に中国人の女は避けたが、大使館の女子職員に対しては身をかわすのも面倒で、言いなりに相手をすることになった。けれど、もはや学生時代のように義務を果たそうと思う誠意すら持てず、結局は不実で冷たい恋人と言われて早々に別れた。
ザイコフの方にはブダペストの記憶を紛らわしたい気分も多少あったが、いくら《顔のない女》たちと不毛な情事を重ねても、何の救いにもならなかった。そのうちゴールキンにたしなめられたこともあり、以後そういう女性とのつき合い方は控えたが、モスクワでリータと結婚させられたのは、そのあたりにも理由があったのかも知れない。
考えてみれば、リータも同じタイプの変形版だった。彼女が振りかざしていたのは美貌ではなく、特権階級意識だったというだけの違いだ。そのリータからもようやく解放されて、当分あの手の女にはご遠慮願いたいと思っていたところへ、今またジェシカである。
勘弁して欲しい、とザイコフは思った。今日の場合、彼女がマクベリーと一緒だったことには、話相手のダミーという意義がなくもない。だが、それならそれで黙って座っていれば良いものを、ああも露骨に色目を使ってくるのは不快だった。しかも向かい側にいるマクベリーを気にも留めない様子からすると、どうやらそこにはCIAの思惑があるらしい。おおかた彼女をあてがって、抜き差しならぬ状況に自分を追い込むつもりなのだろう。安く見積もられたものだが、CIAの側から見れば自分は、ひとりの女性に入れ込むあまり上司にたてつき、揚げ句の果てに左遷の憂き目をみた愚か者でしかないのだろう。
胸の奥に疼くような痛みを覚えながら、ザイコフは改めて、ブダペストの一件をCIAに吹き込んだゴールキンを恨んだ。北京では彼は確かによくしてくれたが、こればかりは余計な真似をしてくれたと思わずにはいられなかった。
マルセイユの三人目、マルセル・ブロシェ海軍中尉は、その倒錯した趣味が発覚したことで投げやりになってしまい、もはやこれまでと自分の犯した背信行為を洗いざらい告白した。彼は海軍の調達局というポジションにいたおかげで、特に地中海におけるフランス海軍の装備と配置を手に取るように知ることができ、それらの情報を定期的に流していたという。彼の密やかな趣味をネタに脅迫してきた相手の男は、自分が何者かをハッキリとは名乗らなかったが、ブロシェ中尉はKGBだろうと考えていた。というのも、その男は流暢なフランス語を話したが、明らかなスラヴ訛りがあったからだ。彼に直接会ったのは最初に脅迫された時の一度きりで、その時のブロシェ中尉は秘密を知られた恐怖のあまり相手の顔を観察する余裕などなかったから、黒っぽい髪をした小柄な男だという程度の事しか言えなかった。それ以降は、仲間と思しき別の男の電話を受けたことが一度あるだけで、通信はいつも秘密の投函所を通じて行われた。また電話をかけてきた二人目の男のフランス語には、訛りなどの特徴さえなかったという。
いずれにしてもブロシェ中尉が流していた情報はたいへんなもので、フランス海軍はその被害の評価と対処に頭を悩ませていた。逆に言えば、情報提供を受けていた側にとっては彼は重要な情報源だったはずで、それが逮捕されたことは大きな痛手となるだろう。
ジェシカと共に大使館に戻ったマクベリーは、この《三人目》に関する報告を聞いて唖然とした。マルセイユの他の二人は、非合法工作員の出入りを見逃すとか、武器その他の不法な物品の通過を黙認するといった受動的な役割を果たしていただけで、言わば替えのきく小物だったが、この海軍中尉は間違いなくKGBパリ駐在部の虎の子だったに違いない。それを誠意を証明するつもりで差し出した揚げ句、こうも露骨な逮捕劇を展開されて、ザイコフが今どれほど危険な立場にあるかを痛感した。
エドワーズ支局長はすでに帰宅していた。マクベリーは支局長のフラットに電話をかけて面会を求め、その夜のうちに訪ねていく許可を得た。翌朝を待ってはいられない気分だった。