報復
マクベリーがカフェでの《庭師》との会見を報告し、彼の要求を伝えると、支局長は渋い顔をして考え込んでいたが、やがて何度か頷くとこう言った。
「見事に読まれているようだな。実は今日、フランス側と交渉を持ったんだが、だいたい彼が言う通りの反応だった。確かにマルセイユの海軍中尉の摘発は大収穫だったし、今後もあのレベルの情報を提供してくれるなら《庭師》の防衛に協力するのはやぶさかでないが、彼の正体を教えない以上、それはあくまでCIAの資産なのだから、フランス当局としては側面補助しかできんと言うんだな」
「どうやら《庭師》が読んだ通りですね。それで、どうするんです?」
「いずれにせよ、彼に何も与えないわけにはいかんだろう。とりあえずラングレーに《庭師》がよこした成果を報告した上で、どうするか相談する。とにかく何らかの手は打つつもりだ」
「その結論は、いつ頃になりますか?」
「分からん。が、なるべく急いだ方がいいんだろうな」
「《庭師》の方では、自分に疑惑の目が向くまでに3〜4週間の猶予を見ていますが、俺としてはもう少し早く、できれば2週間以内には手を打ちたいと思ってます」
「承知した。とにかくラングレーとの相談がまとまったら、すぐに君に知らせるよ」
「よろしくお願いします」
マクベリーはそう言って、支局長のフラットを辞去した。
実際、このマルセル・ブロシェ海軍中尉の検挙は決定的だった。CIAに直接の利益はなかったとはいえ、少なくともパリのKGB駐在部が大損害を被ったことは確かだと思われた。それまで常に懐疑的な態度を保ってきたエドワーズも、とうとう《庭師》を本物と断定し、本腰を入れてラングレーとの交渉を始めた。だが《庭師》防衛の対策については、なかなか話がまとまらなかった。
結局マクベリーが支局長に呼ばれたのは翌週の木曜日、カフェで《庭師》と接触してからすでに10日が経過していた。実はこの間、アメリカ本国では大統領選挙が行われていたため、パリへの返事が遅れたのだ。マクベリーはじりじりしていたが、エドワーズ支局長は逆にいいタイミングだと言った。
「明後日、オペラ座で新演出の〈ラ・ボエーム〉が公演され、その後フランス政府主催のレセプションが開かれるんだ。わが国を始め、各国大使館にも招待が来ているから、君もそれに出席しろ。表向き《庭師》は文化担当アタッシェになっているから、おそらく顔を見せるはずだ。外務省のエージェントを通す手は使えないネタだからな。情報は君が直接《庭師》に伝える形をとる。ただし君の方からは彼に近づくな。向こうから君に話しかけてくるよう、事前に伝えておけ。そうすればソ連大使館の面々には、彼が君から巧妙に話を聞き出したと見えるだろう」
「それで、具体的には彼に何をリークするんですか」
「年明けに発足するニクソン新政権が《秘密の方策》として何を考えているかを教えてやるんだ」
「…なんですって?」
「重要度では申し分ないネタだろう?」
そう言ってニヤリとした支局長の顔を、マクベリーはまじまじと見返した。
「それは確かにそうですが、いくらなんでも…」
「まあ聞け。このリークは何も向こうのためじゃない。アメリカにとっても利益になるかも知れんのだ。つまり、リークしたいからリークするのさ」
先ごろのアメリカ大統領選挙では、ベトナムからの《名誉ある撤退》を公約に掲げたリチャード・ニクソンが新大統領に選出されていた。彼は「公約実現のための秘密の方策がある」と言い、そのブレーンとして、先の大統領候補者指名選挙で破れたロックフェラーの顧問だったヘンリー・キッシンジャーを、数日前にスカウトしている。
「ベトナムに収集をつけると公約はしたものの、今年5月に始まった和平交渉の状況を見ると、このまま正面から交渉を続けても急速な進展は期待できない。そこで搦め手から攻める意味で、北ベトナムを支援しているふたつの主要国、つまりソ連と中国だが、そのどちらかと外交的に歩み寄ることを検討しているようだ。要するにソ連と歩み寄れないなら、中国と手を組むということだ」
1950年代の後半から悪化しはじめたソ連と中国共産党の関係は、今では修復不可能になっていた。今のところは中国が国際的に孤立した形になっているが、そこにアメリカが手を差し延べれば、孤立するのはむしろソ連と一部の東欧諸国ということになる。中国側は喜んで応じるだろう。
「現時点では、どちらに歩み寄るかを検討している段階だ。つまりソ連側にも選択の余地が残されている。アメリカが中国と手を組むのを阻止したければ、先んじてアメリカに歩み寄るという選択肢だ。このネタをリークする狙いはそこだ」
「しかし、新大統領が本気でそんなことを考えているとは信じ難いですよ。聞くところによると、中国の国内情勢は現在とんでもない状況になっているそうですし…」
マクベリーは自分自身の疑問をぶつけてみた。彼が納得できなければ《庭師》を納得させようもない。
中国では昨年、紅衛兵と名付けられた若者たちの集団が結成され、毛沢東思想を信条として知識階級を暴力で弾圧するようになっていた。彼らの行動はナチス・ドイツのヒトラー・ユーゲントを彷彿とさせ、その内政の混乱ぶりはソ連におけるスターリンの大粛正時代を思わせた。後に文化大革命と呼ばれる粛正時代が始まっていたのだ。人権外交を基本とするアメリカが、そんな国に歩み寄れるものだろうか?
「確かにその問題はあるが、幸か不幸かあの国の出来事は、今のところ一般にはあまり知られていない。この先もしばらく、その混乱ぶりが竹林の向こうから漏れてさえ来なければ、建前はなんとでもなる。それはさほど難しい事じゃない。もし《庭師》がその疑問を持ち出したら、KGBの方でもキッシンジャーという男について調査してみろと勧めるんだな。彼は徹底した現実主義者でね。実益のために必要とあれば、中国の人権問題も内政不干渉の原理で片づけそうな男だよ」
「分かりました。ただ…そのネタ、一介の情報部員が立ち話で漏らすにしては大きすぎませんか?」
「余所はともかくパリの大使館なら、こういう話が入ってきたと言っても不思議はなかろう」
確かにそうだ、とマクベリーは思った。ベトナムの和平交渉は現在パリで進行中なのだ。
「参考までに言っておくと、このネタは本当なら新政権の発足前に、ワシントンでもう少し上のレベルを通してリークする予定だったんだ。それを先に《庭師》に提供することにした。もちろんワシントンの方でも予定通りに情報を流す。後で同じ内容の情報が、上級レベルから裏付けの形で入ってくれば、彼のKGB内での信用も上がるだろう。どうだ、ジョン。これで《庭師》の防衛策になるかな?」
エドワーズ支局長はそう言って、再びニヤリとした。
「充分だと思います。ありがとうございます、これほど巧妙な手を考えていただけるとは…」
マクベリーが恐縮して答えると、支局長は笑って手を振った。
「私が考えたわけじゃない。実はこれは、イワン・ゴールキンのアイディアなんだ」
「我々に《庭師》を推挙した亡命者ですか」