報復
「うむ。もっと実を言えば、北ベトナムを孤立させるために中国に歩み寄るという選択肢を、最初に提案したのもゴールキンだ。そのアイディアをCIAが提唱し、ニクソンはそれを採り入れた。すると今度は、アメリカが中国との歩み寄りを真剣に検討し始めたという情報を、KGBにリークしろと言う。ブレジネフから譲歩を引き出せるかどうか試しても損はないと言うんだ。さすがロシア人はチェスの名人だな」
実際ソ連はこの話を聞き、また69年3月の中国との国境紛争(ダマンスキー島事件)を経ていよいよ譲歩の姿勢を見せ始め、同年11月には米ソ戦略核兵器削減交渉のテーブルにつく。だが交渉が難航する間にベトナムはますます泥沼化し、業を煮やしたニクソンはついにキッシンジャーを中国に派遣、さらには日本の田中角栄を抱き込んで、72年には日米両国で中国との国交正常化を実現させてしまうのだった。結局、アメリカとソ連のデタントが進むのは73年以降になるのだが、これはまだ未来の話である。
「そういえば《庭師》もチェスは巧そうですよ」
支局長のセリフを受けて、マクベリーは自分の感想を漏らした。先日カフェで密談したとき、すっかり彼に腹のうちを読まれていたのを思い出したのだ。
「そういう男が我々に協力する気になったんだから、結構なことだ」
エドワーズはそう言って、満足そうに笑った。
「今、ゴールキンはロンドンでCIAのセーフハウスに滞在して、いとこ(SIS)に協力しているが、アメリカに戻ったらソ連と中国の専門家として、政府の陰のブレーンを務めることになるだろう。《庭師》には当分の間エージェント・イン・プレースを続けてもらうが、いずれ時期が来れば受け入れる用意があると伝えておけ。彼はゴールキンとは旧知なんだし、ブレーンとして手を組んでも悪くなかろう」
どうやらマルセイユの海軍中尉とスイスの偽亡命者の件では、ラングレーも《庭師》を高く評価しているらしい。そしてそれはとりもなおさず、彼を獲得したマクベリーへの評価でもある。自分にもやっと幸運の女神が微笑みかけてくれたようだ、とマクベリーは思った。
「そういえば、スイスの偽亡命者はどうなってます?」
ふと思い出してマクベリーは訊ねた。すると支局長は肩をすくめた。
「今のところは丁重に扱っている。本人の話では階級は少佐で、モスクワの非合法工作本部に6年いたと言っている。調べたところ、どうやらこの経歴は本当だ。まあKGBも、こちらで調べればすぐに分かることで嘘はつかないよ。まだKで始まる名前の男については匂わせる程度のことしか言わないが、これも向こうにとっては目玉商品だから、温存しているんだろう。とりあえずは通常の亡命者を扱うのと同様の手順で、彼の供述を検証しながら様子を見るふりをしているところだ。いずれは偽物だと指摘した上で、本当のことを全部吐かせてやるつもりだがね」
「KGBに、この工作が事前に《庭師》から我々に漏れていたことを気取られないよう、くれぐれも慎重にお願いしますよ。彼は今や、我々にとって貴重な資産ですからね」
「チューリヒ支局にそう言っておくよ」
支局長は引き受けたと言うように大きく頷いた。マクベリーは満足して支局長のデスクを辞去すると、さっそく翌々日のレセプションについて《庭師》に指示を伝える手配にかかった。