報復
「具体的な居場所はともかく、ちゃんと安全な所にいるかどうかを訊いてるんだ」
「なぜそんなことを?」
するとザイコフはさらに低く声を落として言った。
「私でも気がついたぐらいだ。今の話をモスクワに伝えたら、それがゴールキンの提案だということは、分かる人間にはすぐ分かる。KGBは、亡命した男が祖国に不利となるアイディアをCIAに提供するのを放っておくほど、優しくも怠惰でもないよ。しかも、これからアメリカ政府がソ連と中国を両天秤にかける方針なら、ゴールキンの重要度がさらに増すのは明らかだ。亡命から1年半ぐらいでもう安泰だと思ってるなら大間違いだ」
「暗殺の危険があると…?」
マクベリーは相手の顔をじっと見返した。ザイコフは真剣な顔つきで頷いた。
「彼がどこにいるか知らないが、今後しばらくは今いる場所を動かさない方がいいと思う。特にアメリカ国外には出さないように。長距離の移動は目を引いて危険だ」
「大丈夫だ」
マクベリーは言った。
「彼はアメリカの主権が及ぶ場所で、ちゃんと守られているさ」
そう言ってしまってから、マクベリーはうっかり口が滑ったことにヒヤリとしたが、ザイコフは頷いて「頼むよ」と言っただけで、特別な反応は示さなかった。深読みせずに聞き流したようだ。マクベリーは内心ホッと胸をなで下ろした。
「ところで、こちらからも伝えておくことがある」
そう言ってザイコフは話題を変えた。
「パリのアメリカ大使館を標的にした爆弾テロの計画があるよ」
「爆弾テロ?」
マクベリーは眉をひそめて聞き返した。なにやら突拍子もない話に聞こえる。
「いったい誰が、何のために、パリの大使館なんか狙うんだ?」
「首謀者は先の五月革命を先導した学生グループの一部だ。パリの大使館を標的にするのは単に手近だというだけだし、目的はベトナム戦争への抗議だと言うんだから、もとはまるで青臭い話だ。だが、それをうちのSラインが支援しているとなると、バカにもできなくなる」
なるほど、とマクベリーは思った。アメリカ大使館に損害を与えた上、その青臭い連中に犯人の汚名を被せられるなら、KGBとしては手を貸して損はない。おそらく学生どもはテロの後で犯行声明を出し、マスメディアに向かってベトナム批判を繰り広げるとかいう筋書きなのだろう。KGBにとっては手軽な世論操作だ。むろん当の学生たちは、自分たちがKGBに利用されているとは露知らず、夢にも想像していないのだろう。
「分かった。その話、明日にもフランス警察に話して探らせてみる。五月革命の学生グループなら警察の方が情報を持ってるだろうし、どっちにしろフランス国内でのテロリストの摘発は警察の仕事だ」
マクベリーがそう言うと、ザイコフは小さく首を横に振った。
「警察に任せるのはやめた方がいい」
「どうしてだ?」
「KGBがベトナム帰りのアメリカ人をひとり、犯行グループにねじ込んだからさ。ソンミ村事件の生き証人だという話だ」
「なんだと…?」
ソンミ村事件の生き証人? マクベリーは耳を疑った。
「学生たちが犯行声明を出してベトナム批判をする時、その男が事件の真相を暴露するという筋書きだ。KGBの狙いはむしろそっちでね。連中がフランス警察に検挙されれば、それでも構わないんだ」
ザイコフの説明を聞いてマクベリーは唸った。
今年3月に起こったソンミ村事件は、表向きにはアメリカ軍と南ベトナム解放軍のゲリラ部隊との戦闘だったと報じられているが、実際には恐怖に理性を失ったアメリカの兵士たちが、無抵抗の村民に向けて機関銃を無差別乱射し、女性や子供を含め500人余りを虐殺して、集落ひとつを全滅させるという異常事件だった。アメリカ国防省は非難を恐れ、この真相をひた隠しにしている。
あの事件を知っている男がテログループに交じっているのなら、フランス警察に逮捕させるのは絶対にまずい。テロは阻止できても、逮捕後の事情聴取でそんな話を披露されたら、結局フランスのマスコミが世界中に公表するだろう。そうなればアメリカのメンツは丸つぶれだ。
「いったい何処で、そんな男を見つけてきたんだ? 本物のアメリカ兵なのか?」
「そこまでは知らない。あるいは単にベトナム帰還兵を装った工作員かも知れない。でも暴露する内容は本物だ。あの事件の真相はKGBも掴んでる。それを信ぴょう性のある形で公表するための演出だよ」
「…その件、CIAが手を出しても、あんたの方は大丈夫なのか?」
「ほう。私が手を出さないで欲しいと言ったら、黙って爆破されてくれるのか?」
ザイコフはわざとらしく驚いて見せた。マクベリーは舌打ちした。まったく嫌味な奴だ。ザイコフは一瞬ニヤリとし、それからやっと真面目な返事をよこした。
「まあ、そっちも手を出さざるを得ないだろうが、もう少し待って欲しいな」
「もう少しって、実行予定はいつなんだ?」
「少なくとも、明日明後日ということはない。というのも、当初の予定ではセムテックスを含む数種類の爆薬をマルセイユ経由で運び込んで、学生たちに供給することになってたんだ。ところが、あんたたちがそのルートを潰したんで、スケジュールが狂ったのさ。そもそもこの計画が私の耳に入ってきたのも、予定変更でSラインが少し騒がしくなったおかげだ」
そんな物資の密輸に関係があるのは入港管理官か税関検査官の方だが、その二人はブロシェ海軍中尉より先に検挙されている。とすると、彼がこの計画を耳にしたのは、少なくとも3週間前ということだ。
マクベリーはちらりと横目でザイコフを睨んだ。
「…じゃあ、この前カフェで会った時には、知ってて黙ってたんだな」
「それほどお人よしでもないんでね」
マクベリーの抗議にも、ロシア人は涼しい顔だった。
「私の窮状を救ってくれれば埋め合わせすると言ったろう。今日だって、もしあんたのネタがクズだったら黙ってるつもりだった」
「まったくいいタマだな、あんた」
「怒るなよ。このくらい用心深くなきゃ、エージェント・イン・プレースなんかできるか」
そう言って肩をすくめると、ザイコフは話をもとに引き戻した。
「とにかくマルセイユ・ルートが使えなくなった以上は、新たにクーリエ(運び屋)を仕立てて、爆薬を別ルートで持ち込むことになる。それがいつ、どこから入るかを、いま探っているところだ。分かり次第そっちに知らせる。どのみち爆薬が到着するまでは連中も行動を起こさないから、この件に手を出すのはそれからでも遅くはない。CIAの方で、そのクーリエに気づいて追跡したという形をとって欲しい」
「そのクーリエ、まだフランス国内に入ってないのか?」
マクベリーは訊ねた。
「マルセイユの税関が潰れて3週間以上になるぞ。KGBにしちゃ、ずいぶんのんびりだな」
「よしてくれ。もともとOASのおかげでフランスへの武器弾薬類の持ち込みは難しかったのに、あの件以来、フランス側の国境での警戒は陸海空ともにさらに強まった。おまけに内部じゃ情報漏れが疑われているんだ。ペースダウンもするさ」
「どうして外交郵袋を使わないんだ」
マクベリーがそう訊ねると、ザイコフはちょっと呆れたような顔をした。