報復
「気の毒だなんて、あなたが刺したんじゃない」
「…まあね」
肯定しながらも、ザイコフはちょっと不快そうな顔をした。
「だが、彼個人に恨みはないんだ。決して気分はよくないね」
「それもそうね。悪いこと言ったわ」
ジェシカは素直に謝ると、声の調子を変えていった。
「とにかく、これであなたの信頼度はまた上がったわ。さっき言った場所の件だけは、どうしても急いで欲しいんだけど、その返礼に何かできることがあれば言って欲しいそうよ」
「それはありがたいが、今のところは昨日マクベリーから聞いた話で充分だ」
「じゃあ、また何か必要が出てきたら言ってね。うちからの連絡はそれだけよ」
話が一段落したところで、ジェシカは思い切って切り出した。
「ところで…、ちょっと個人的な質問をしてもいいかしら? 少しあなたって人に興味があるの」
ザイコフはちらりと時計を見て言った。
「あまり時間がないんだけどね」
「時間はとらせないわ。訊きたいことはひとつだけなの」
ジェシカはそう前置きすると、いきなりずばりと切り込んだ。
「例のハンガリー女性のこと…、あなた今でも愛してるの?」
その途端、ザイコフは険しい目つきでジェシカを睨んだが、彼女はたじろがなかった。そういう反応は予測ずみなのだ。非難するような視線を正面から受け止めながら、ジェシカは逆に真剣な顔でザイコフの目をのぞき込んだ。
黙ったままジェシカを睨んでいたザイコフは、しばらくしてようやく口を開いた。
「…ずいぶん無遠慮だね」
「つまり、まだ愛してるのね?」
身を乗り出すようにしてジェシカが言うと、ザイコフは黙って目をそらせた。ジェシカがなおも見つめていると、やがて彼は小さなため息とともに目線を落とした。
「もう過ぎたことだ」
小さな声でつぶやくようにそう言うと、ザイコフは気を静めるように目を閉じ、ひと呼吸した。そして静かな、けれども怒りと苦痛を含んだ声で、ジェシカに訊ね返した。
「今さら何故そんなことを訊く? 私の古傷をつついて面白いか」
「ごめんなさい。あなたを傷つけるつもりじゃなかったの」
ジェシカは精いっぱい相手を気づかっている口調でそう言い、それから自分も俯くと、思い詰めているような表情を作った。内心では、いよいよ一歩を踏み出す高揚感を味わいながら。
「ただ…、私じゃ代わりになれないかと思って…」
ザイコフは怪訝そうな顔でジェシカを見た。ジェシカも顔をあげて再び真剣な表情でザイコフを見つめ返した。ジェシカはすでに自分の演技に陶酔し、のめり込んでいた。そうすることで顔つきや声の調子が真に迫ったものになることを、彼女は自分でよく知っていた。このほとんど自己陶酔とも言える演技には、国際テロリスト組織の老獪な幹部でさえほだされたのだ。
「…ねえ、私じゃダメ? あなたを慰めたいの」
言いながらジェシカは手を伸ばし、ザイコフの右手にそっと重ねた。ところがジェシカの期待に反してザイコフは露骨に眉を顰め、すっと手を引っ込めた。
「よしてくれ」
ジェシカは思わずムッとした。自尊心を傷つけられて、せっかくの演技も放り出してしまった。
「何よ、私じゃ役不足だって言うの?」
するとザイコフはため息をつき、迷惑顔を見せて言った。
「私は今、ただでさえ微妙な立場なんだ。この上スキャンダルのタネを抱え込む余裕なんかない」
これを聞いてジェシカは少し溜飲を下げた。要するに彼が拒絶したのはスキャンダルの危険であって、ジェシカ自身ではないということだ。また聞きようによっては「危ういから誘惑しないで欲しい」という意味に取れなくもない。
「ごめんなさい、怒らないで」
ジェシカは慌てて放り出した演技を取り繕った。
「でも、あなたに興味があると言ったのは本当よ。あなた、自分がハンサムだってこと、知らないの? 女なら誰でも興味を引かれるわ」
「…からかわないでくれ」
「からかって言ってるんじゃないわ」
ザイコフはまた時計に目をやると、不機嫌そうな顔で立ち上がった。
「要件は終わったんだろう。もう行くよ」
「もし気が変わったら、そう言って」
タバコを引っ張り出しながら、ジェシカはそうダメ押しした。ザイコフはそのまま席を離れて行った。返事はなかったが、ジェシカにはかえってそれが、彼の胸中にタネが蒔かれた証のように思えた。
ザイコフはカフェを出ると、ブローニュの森の方向へ歩き出した。途中、メトロ駅《ドフィーヌ門》の公衆電話からどこかへ一本の電話をかけたが、その後すぐ駅を出てロータリーを通りすぎ、幹線道路から左に逸れて森の中へと入っていった。日没とともに気温はぐんと下がり、折しも吹き始めた強風に乗って風花が舞っている。森を縦断する幹線道路には車のヘッドライトが頻繁に行き来していたが、木々の間を縫う遊歩道はすっかり夕闇に沈み、もはや散歩する者もいなかった。その寒々しい薄闇の中をザイコフは黙々と歩き、森の真ん中に程近い湖まで辿り着いた。その場所を選んだことには特別な意味はなかった。ただ、どこかで頭を冷やしたかっただけだ。
その時のザイコフは、表面的には普段の物静かな態度を保ってはいたが、内心では人ひとりぐらい絞め殺して水底に沈めてやりたいほど怒り狂っていた。最初に声をかけてきた時のマクベリー然り、先ほどのジェシカ然り。もっとも他人に触れられたくない過去の傷を、彼らは何の遠慮もなくつつき回す。KGBという組織の中で、また諜報という特殊な世界にあって、個人の本音の処し方というものを多少なりとも学んだ今、表立って怒りを爆発させることはしなくなったが、そうして抑えた怒りは熾火のように、炎をあげることなく身の内を焼いた。だが欺瞞と陰謀の渦巻く中を巧く立ち回っていくためには、いつまでもそんな熾火を抱えているわけにはいかない。怒りは早々に腹に収め、冷静に戻らなければならなかった。特に今、微妙な綱渡りに足を踏み出してしまったこの今、一歩も踏み誤ることはできないのだ。
障害物のない湖の上を渡ってくる風はいっそう強く、また湿り気を帯びて冷たく、水際に立つザイコフを容赦なくなぶっていく。モスクワに生まれ育った者にとってさえ、それは身を切る寒さだったが、それでもザイコフはその場に彫像のように立ちつくし、暗く波立つ湖面に風花が吸い込まれていくのをじっと眺め続けた。