報復
翌朝、パリのアメリカ大使館ではエドワーズ支局長が、前日の朝とは打って変わった形相で荒れ狂っていた。マクベリーとジェシカは呼びつけられ、未明に起こったローザンヌの出来事を聞かされた。
「いったいどうなっているんだ、あの男は!」
エドワーズは《庭師》のことを言っているのだった。
「完全に信用できると結論した途端にこのザマだ。奴は本当に本物なのか? ペーロフの底が割れたのはつい昨日だぞ。あまりにも反応が早すぎる! しかもローザンヌからの報告では、完全な待ち伏せだったそうだ。KGBにそんな周到な真似ができたのは、奴が情報を流したためとしか考えられん!」
「ちょっと待ってください、支局長」
マクベリーは狼狽しながらも、まだ《庭師》が裏切ったとは信じられず、また信じたくもなく、必死で頭をめぐらせた。その甲斐あって、やがて彼を擁護するポイントが見つかった。
「彼らの反応の早さは、たとえ《庭師》が情報を流したのだとしても説明がつきません。彼はペーロフの正体が割れたことは報告できても、いつローザンヌから移送されるかまでは報告できなかったはずです。我々でさえ、昨夜だとは知らなかったんですからね」
「だが、ローザンヌに監視を送り込むことは可能だ。遠くからでも山荘を見張っていれば、移送の動きは察知できるし、移送を察知すれば襲撃部隊を配置することもできる」
エドワーズはそう決めつけたが、マクベリーは腑に落ちなかった。彼はジェシカを振り返って訊ねた。
「ジェシカ。君が昨日、ペーロフの正体が割れたことを《庭師》に話したのは何時だ?」
「エージェントから、彼が大使館を出たという連絡が入った時点で午後6時すぎだったから、話したのはその30分後か、もう少し後よ」
「すると、ジェシカと別れてすぐに大使館に報告したとしても、襲撃までに6時間半しかありませんよ。KGBの場合、各国のオフィスがモスクワを通さずに動くことなどあり得ませんが、もしも今回に限ってパリの駐在官オフィスが直接チューリヒに指示を出したのだとしても、ローザンヌに監視を送り込むにはギリギリです。しかも監視の到着と同時にペーロフの車が出発したのでは、待ち伏せを手配する時間などなかったはずです。この件は《庭師》の裏切りのせいじゃありませんよ!」
マクベリーの主張には、確かに理があるようだ。エドワーズはしばらく考え込んだが、やがてどうにも分からんというように頭を振った。
「だが、それならKGBはどうやって、こうも素早く反応できたんだ? 他にどんな説明がつく?」
「それは…理由は分かりませんが、KGBが以前からペーロフを監視していたとしか思えません。たぶんペーロフを引っかけたCIAの大芝居を、彼らもどこからか見ていたのではないでしょうか。それならば偽の亡命者の底が割れたことも即座に分かったはずですし、移送に備えて襲撃部隊を配置することも可能だったでしょう。それ以外には説明がつきません」
「確かにそれなら辻褄は合う」
頷きながら、エドワーズは言った。
「だが、もしそうだとしたら、KGBは早い段階からペーロフの正体が見破られる可能性を予期していたことになる。何故だ? 連中が偽の亡命者を送り込む時には、事前に徹底的なブリーフィングを施して、完璧を期して送り込むのが普通だ。見破られることを予想して監視をつけるくらいなら、最初からそんな工作員を送り込んだりしなかったはずだ」
「でも、まさか《庭師》が自分から、非合法工作本部の作戦をCIAに漏らしたなどとKGBに報告するとは思えません。そんなことをしたら、彼は今頃パリにいないどころか、もう生きてはいないでしょう。たとえ翻意するにしても、そんな自殺行為に走るほど頭の悪い男じゃありませんよ、彼は」
確かにその通りだった。最初に《庭師》が証言したところでは、この作戦についての意見聴取は67年1月に行われたという話だが、CIAの調べによると、その後モスクワの非合法工作本部を離れて国外に出た者は4名しかおらず、そのうち2名は共産圏、1名はアフリカに赴き、西側諸国に派遣された者は《庭師》ひとりである。この作戦がCIAに漏れたと分かれば真っ先に疑われるのは彼だったし、それは本人が誰よりもよく分かっているはずだった。
エドワーズ支局長は沈思した。その沈黙を破ったのはジェシカだった。
「とりあえず昨夜の一件を《庭師》に話して反応を見たらどうかしら。それに、もし彼の知らないうちにKGBが作戦漏れを嗅ぎつけたんなら、そのことを彼に警告しなきゃいけないわ」
「しかし、もし彼が疑われているとしたら、3日も続けて接触するのは危険すぎる」
マクベリーは異議を唱えたが、エドワーズはジェシカに賛成した。
「やむを得ん。のんびり構えていられる事態でもなかろう。もしジョンが言うように、ペーロフに監視がついていたのなら、すでに《庭師》は疑われている可能性が高い。奴に警告を発するなら一日も早い方がいいし、例の学生グループの隠れ家だけは、何としても情報をよこしてもらわなければ困る」
「昨日の時点では、彼はまったく自由だったわ。尾行もついてなかったし、本人も特別な異変を感じてる様子はなかったから、まだ数日は大丈夫じゃないかしら。とにかく私は、彼に指示しておいた待機場所に行って待ってなくちゃいけないわ。もしかしたら今日にも向こうから接触してくるかも知れないし」
「よし。では今日のところは、こちらからの接触は避けて、待機場所で待つ形にしてくれ。もし今日中に向こうから接触して来なかった場合は、今晩また相談しよう」
エドワーズはそのように結論を出して、ジェシカに頷きかけた。ジェシカは昨日《庭師》に伝えた待機場所に向かうために出ていった。彼女がいなくなると、エドワーズはマクベリーに向かって言った。
「ところで、スイスで例の芝居をやったグリーンベレーの3人が、約束通り今朝こちらに到着している。マレ区にあるうちのフラットに入ってもらった。昨夜の暗殺事件はまだ彼らに話していないが、知ったら地団駄踏むだろうな。君は彼らとの顔合わせを兼ねて、芝居を打った時の詳しい様子を聞き出してくれ。もしKGBが外部から監視していたとして、中で起こったことを正確に察知できたものか、彼らの意見も聞いてみたい」
「分かりました」
ジェシカは《庭師》に伝えた通り、昨日のカフェで午前中2時間、夕方2時間過ごしたが、ロシア人は現れなかった。午後6時、彼女はあきらめて席を立ち、表通りに出た。こうなれば、明日またエージェントを使って積極的に彼を捕まえるしかない。そう考えながらメトロ駅《ヴィクトル・ユゴー》に向かって歩いていた時だった。ジェシカの横をすり抜けるようにして追い越していく者があった。ザイコフだった。彼はそのまま歩みを緩めず、ジェシカを引き離すように歩き続け、夕刻の人並みに紛れてメトロの階段を降りていく。これは彼からの接触のジェスチャーだ、とジェシカは咄嗟に判断し、その背中を見失わない程度の距離を保ちながら、彼に続いてメトロ駅に降りていった。