報復
郊外へ向かうプラットホームは帰宅を急ぐ人々で混みあっていた。そのホームのいちばん端の辺りで、タイルの壁に寄りかかって、ザイコフはル・モンドを広げていた。その周囲には電車を待つ乗客が何人もいて、めいめい本を読んだり同行者と話したりしている。同じく電車待ちの風情で近づいてくる人間に、注意を払う者などいなかった。ジェシカはさりげなくザイコフの隣の壁際に位置を占めると、急いで考えを巡らせた。ザイコフの方から接触してきたのは、例の隠れ家の場所を知らせる目的だと思われた。彼はおそらく電車がホームに到着して乗降口が開く瞬間を待っているのだろう。人々の注意は電車に引きつけられ、降りてくる人々と我先に乗車しようとする人々が入り乱れてホームが混雑する。その瞬間を狙って相手の手にメモを滑り込ませるというのは、古典的ではあるが有効な方法だった。こういう場合の定石では、メモを渡した方も渡された方も一切口をきかず、そのまま別々の方向に別れて行くことになる。だが、今日はそういうわけにはいかない。こちらにも伝えるべきことがあるのだ。
どうしたものかと考えた末、ジェシカはバッグからメモ帳をとり出し、カレンダーにデートの約束でも書き込むような顔をしながら急いで空欄にペンを走らせた。
《緊急連絡あり、要面談》
大きめの文字でそう書き込むと、ジェシカはすぐにメモを閉じたが、隣で小さな舌打ちの音が聞こえたことから、ザイコフが確かに彼女のメモを見たことが分かった。電車がホームに滑り込んできた。人々がホームの線路際に移動をはじめる。その騒音にまぎれて、ザイコフは小さな声で「シャイヨー宮」とだけ囁くと、さっさと新聞をたたみ、ジェシカには目もくれずに電車に乗り込んでいった。ジェシカも壁際を離れ、手にしていたメモ帳をバッグにしまいながら、ザイコフが乗り込んだのとは別の乗降口から電車に乗り込んだ。
シャイヨー宮の博物館は午後5時で閉館していたが、その入り口前から左右に半円形を描く石の階段はセーヌ川を隔ててエッフェル塔を臨む絶好の立地でもあり、11月の日没後の寒さにも関わらず、何組かの観光客やカップルが所々にたむろしていた。石段に明かりはほとんどなく、照明に浮かぶエッフェル塔やセーヌ川を行き来するバトー・ムーシュ、さらに左手にはシャンゼリゼの夜景まで美しく見渡せるが、それを見物する人々の顔を判別するのは難しかった。
その石段の中ほど、他の人々からは充分な距離をおいた所で、ザイコフは手すりにもたれて煙草に火をつけた。少し遅れてやってきたジェシカは、ザイコフから数段はなれた所で同じように立ち止まり、夜景を眺めるフリをしていたが、しばらくしてバッグから煙草を引っ張り出すと、火を借りる風を装ってロシア人に近づいた。最初のカフェでの経験から学んでいたザイコフは、火のついたライターを差し出した。彼女は細く煙を吐き出し、そのまま彼の隣に位置を占めて話し始めた。
「例の場所が分かったんなら、どうしてあのカフェに来なかったの? そうすれば、あそこで話ができて手っ取り早かったのに」
「君は目立ちすぎる。二日続けて同じ店で会うわけにはいかない。それにCIAとの接触は、これで3日連続になるんだ。私としては、今日はメモを渡すだけで済ませたかった」
ザイコフの言い分はもっともだった。ジェシカは頷いてみせた。
「頻繁すぎるのは認めるわ。でも急なことで仕方ないのよ」
「その急な話というのを聞こうか」
「実は、今日未明、例の亡命者がローザンヌで消されたの」
「…消された?」
「アメリカへ移送するために、ローザンヌの隠れ家からジュネーブに向かう途中で待ち伏せされたのよ。ペーロフの正体が見破られたことを、どういうわけかKGBは、あっという間に察知したようね」
言いながらジェシカは、慎重にザイコフの様子を観察した。彼はショックを受けている様子だったが、彼女にそう言われても慌てる様子はなく、ただ、うんざりしたようにため息をついた。
「また私を疑っているのか。君から話を聞いてすぐに大使館に報告したとでも? 冗談じゃない。各国の出先機関は、モスクワが直接取り仕切る作戦を知らされる立場にない。だからパリの駐在官オフィスの人間は、スイスで亡命者が出たことさえ知らないんだ。パブロフ参事官あたりなら、事件だけは聞いているかもしれないが、それが非合法工作本部の作戦だとは彼ですら知らないはずだ。なのに私がそんなことを知っていて報告なんかしたら、ペーロフより先に私が消されてる」
「そうね。それにあなたは、彼の身柄がいつアメリカに移送されるかを知らなかった。私たちですら知らなかったんだから、知りようがないわ」
そのジェシカのセリフを聞いて、ザイコフは意外そうな顔を向けた。
「…私を疑っているんじゃないのか?」
ジェシカは黙って首を横に振った。
「では、どう考えているんだ?」
「マクベリーは、KGBが当初からペーロフを監視していたんじゃないかと言ってるわ。確かにそれならCIAが打った芝居にも、彼がそれに引っ掛かったことにも気づくでしょうし、すぐに暗殺の準備も始められる。でも、そうだとしたらモスクワは、早い段階で作戦の失敗を予測してたことになるわ。どうしてそんな予測ができたのかしら…?」
これはエドワーズ支局長の受け売りだったが、ジェシカはあたかも自分の考えであるかのように言ってさり気なく才色兼備を演出した。だが、それについてザイコフが何か感想を持った様子はなかった。彼はそれどころではないらしく、真剣な面持ちでじっと何かを考えていた。
「…以前から気になってはいたんだが…」
しばらくしてザイコフは、言いにくそうに口を開いた。
「ゴールキンが私を名指しでエージェントに推したことを、CIAでは何人ぐらいが知ってるんだ?」
「パリの私たちを含めて…そうね、15人ぐらいかしら」
するとザイコフは大きくため息をついた。
「…そんなにいるのか」
「ゴールキンの事情聴取を担当したデヴィッド・メイヤーと助手2名、録音機器の操作係、資料室係官、通信担当者、作戦本部の幹部数名…どうしてもそのくらいの人数にはなるわ。でも、みんな信用のおけるベテランばかりよ。その中から漏れるなんて…」
言いながらジェシカはハッとして、ザイコフに訊ねた。
「まさか、うちには本当に《Kで始まる名前の男》がいるの? つまりKGBのスパイが…?」
「私は知らない。実際にそういう人物が存在するかどうかも知らない。だが穿った見方をすれば、非合法工作本部があの偽亡命者を送り出した裏には、特定の人間をカムフラージュする目的があったとも考えられる。あくまで推測だが、もしこの推測が当たっていたら、すでに私は濃厚に疑われているだろうな」
「何かそんな兆候があるの?」
「表立った変化は何もない。ただ…」
「…ただ?」
「実は今日、モスクワから呼び出しを受けた。来週、向こうに行かなきゃならない」
「何ですって!?」
ジェシカは青ざめた。
「いったい何の呼び出しなの?」