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報復

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「一昨日のレセプションでマクベリーに聞いた話を、昨日の朝、報告書にあげてモスクワに廻した。その件について、より詳細な説明を求めるというんだ。もっともな用件だから疑問に思わなかったんだが…」
「それで、行くの…?」
「指名での呼び出しを拒否できるわけがない。それに報告書の内容が内容だから、モスクワが詳しい説明を求めているのは嘘じゃないと思う。もし本当にそれだけの目的で呼び出されたのなら、下手に慌てたり取り乱したりするのはヤブヘビになる。行ってみるしかない」
「…でも、もし、それだけの目的じゃなかったら?」
 数秒間の沈黙が流れた。セーヌの川面をじっと見つめながら、やがてザイコフは静かに言った。
「そのときは、もうパリには戻って来られないだろうね」
「だめよ。危険すぎるわ!」
「といって、私に他のどんな選択肢がある?」
「今すぐこちら側に抜け出してくればいいじゃない」
 そうジェシカが言うと、ザイコフは鼻先で笑った。
「私は徴募されてまだ3ヶ月にも満たないし、KGBでの階級も低い。そんなエージェントを受け入れるほど、CIAが人情味あふれる組織だとは思えないね」
「でも、その3ヶ月足らずの間に、あなたは充分CIAに貢献したと思うわ」
「それは君の主観だ。私はそうは思わない。マルセイユで利益を得たのはSDECEだけだ。CIAには偽の亡命者の出現を知らせたが、肝心のペーロフが消されて収穫はゼロになった」
「ソンミ村事件の真相発覚を防いだ件もあるじゃない」
「まだ防げてない。結果が出てないんだ。でも、そうだな。もしその件が巧く処理されれば、少しは感謝してもらってもいいだろうね。私がモスクワに発つまでに間に合えばの話だが」
「彼らの隠れ家が分かったんなら、明日にも急襲するわ。とりあえずクーリエを待つって話だったけど、あなたがすぐに抜け出して来るなら、その必要もないでしょう」
 そのジェシカの提案について、ザイコフはしばらく考えていたが、やがて頷いてこう言った。
「それがいちばん手っ取り早いだろうね。だが、襲撃は今週いっぱい待って欲しい。さっきも言った通り、今のところ大使館では特に私に疑惑を向けている様子はない。ペーロフの件はモスクワが直接仕切っていた作戦だから、その事でモスクワが私に目をつけたなら、大使館は知らされていない可能性が高い。あるいは知らされているかも知れないが、そうだとしてもモスクワに送り出すまでは知らぬふりをするだろう。私を警戒させないためにね。それを逆に利用して、自由に動ける間に持ち出せる限りのものを準備したい。もう少しだけ時間稼ぎに協力してくれ」
「あなたがモスクワに行くのは、いつの予定なの?」
「来週の月曜日。ソヴィエト中央委員会の招聘で、フランス共産党の視察団がモスクワに発つ。私はその世話役として随行することになったんだ。当日、空港に行く前にそちらに飛び込むとして、日曜のうちに結論が出れば間に合うだろう。土曜までは予定通りクーリエを待って、それまでに現れなければ、日曜の未明に急襲ということで承知してもらえないか」
「伝えておくわ。たぶん異論は出ないでしょう」
 これだけの危機的状況に臨んで、どこまでも冷静に頭を働かせているザイコフに少し圧倒されながら、ジェシカは答えた。マクベリーの言うように、確かにチェスが巧そうだ。チェックメイトまであと数手という所に追い込まれても、なお逆転勝利を模索するタイプだと思った。
 ザイコフは言葉を続けた。
「私は引き続きクーリエの動きを探るが、直接の接触はできるだけ避けたい。クーリエの動向に限らず、何かあればデッド・ドロップに連絡を入れる。君は毎日、通信の有無をチェックして欲しい」
 こころなしか《クーリエの動向に限らず》という個所が強調されて聞こえた。ジェシカが「あら?」と思っている間にザイコフの手が伸びてきて、小さな紙片を彼女の手に滑り込ませた。それは例の隠れ家の場所を記したメモだと思われたが、意外だったのは、ザイコフがそのまま一瞬ジェシカの手を握ったことだった。彼はジェシカの耳元で「頼んだよ」と囁くと、すぐに手を離して石段を降りていった。
「分かったわ」
 ジェシカはそう答えてにんまりとした。危機に際して冷静なチェスの名手であろうと、結局のところは彼も、ただの若い男なのだと思った。



 マクベリーからの報告によれば、グリーンベレーの3人は、もしKGBがローザンヌの山荘を監視していたとすれば、ペーロフを引っ掛けた大芝居は間違いなく気づかれただろうと証言していた。敷地を広く取ってあるから建物に近づくことは難しいが、なにしろ山に囲まれた場所だから、高いところから強力な双眼鏡を使えば、中を覗くことは不可能ではないという。例の芝居では、それらしく見せるために派手な銃撃戦も行ったし、ペーロフが自分で自分の正体を暴露した後は山荘内の明かりも点けたから、KGBの監視要員が暗い外から見ていたなら、何が起こったかは察しがついただろうというのだ。だがあの山荘が見張られているなどとは、CIA側は誰も考えていなかった。ごく目立たない山荘で、特別に目をつけられるような特徴は何もないのだ。チューリヒから尾行されたのでもない限り、そこにペーロフが匿われていることが知れたはずはない、というのがグリーンベレー3人の見解だった。
 ジェシカの報告を聞いたエドワーズ支局長は、CIAからの情報漏れを疑う《庭師》の見解に対しては何もコメントしなかった。アングルトンによる熾烈なスパイ狩りのおかげで、今ではCIA内部の士気はガタガタだった。そんな中でどこかに緩みが生じたとしても不思議はないと思ったからだ。いずれにせよ、KGBが偽の亡命者作戦の失敗を予期していた可能性は高い。ペーロフは、早くもチューリヒで監視下に置かれたものと考えざるを得なかった。だから《庭師》がモスクワに呼び出されたという話には、ジェシカと同様の懸念を示した。それでも《庭師》の受け入れについては、やはり彼が読んだ通り、現状のままでは不可能だという意見だった。最低でもソンミ村事件の真相漏洩を防ぎ切ってからでなければ、彼を受け入れるだけの実績が認められないと言うのだ。
 そこでジェシカは《庭師》の考えを支局長に伝えた。エドワーズはしばらく考え込んでいたが、やがて何度か頷きながら言った。
「つまり、手ぶらでは出てこないと言うんだな? それなら学生テログループの問題さえ片づけば、受け入れの条件はギリギリ整うだろう。できれば我々だって、いったん徴募したエージェントを見殺しにして後味の悪い思いはしたくない。彼が手土産をかき集めるというなら、時間稼ぎに協力しようじゃないか。とりあえず隠れ家の所在が分かったところで、ジョンを現地に張り込ませよう。グリーンベレーの3名も一緒だ。特に不穏な動きがなければ、そのまま土曜日まで監視を続けることにしよう」
作品名:報復 作家名:Angie