報復
マクベリーは連絡を受けて、さっそくグリーンベレーの3名とともに隠れ家に向かった。それはパリの北30キロほどに位置するシャンティイー郊外にあった。南側に荒れ果てたブドウ畑が広がる古い農場で、かつてはテーブルワインを醸造して地元に供給していたが、大手に押されて経営が行き詰まったらしい。数年前から売りに出されながら、未だに買い手がつかないままに放置されている物件だった。その農場の北側から西にかけて程よく木の茂った小高い丘があり、ひとまず4人はその北西側斜面に農場を見下ろす形で陣取った。
すでに日はとっぷりと暮れ、あたりは漆黒の闇だった。放置されているはずの農場の建物には、しかし確かに人の気配があった。どの窓も鎧戸が閉め切ってあるが、所々に破損があり、その隙間のひとつから黄色いランプの光が漏れている。その光を、時折ちらちらと黒い影が遮るのは、中で人が動き廻っているためだろう。その他には、農場の周囲に何の動きも見られなかった。
これから何日か、11月の寒空に野外での監視を続けることになるが、農場側に気づかれてはならないから火を焚くわけにもいかない。特殊部隊の3人はそれでもへっちゃらだったが、マクベリーにはそんな耐久力はなく、くしゃみでもして連中に気づかれるのがオチだった。そこでパリとの連絡係としてシャンティイーの町外れに投宿することになり、無線機をひとつ渡されて静かに農場を離れた。3人のグリーンベレーは8時間交替で睡眠をとることにし、最初に眠るひとりを決めるために無邪気にくじ引きをした。こうして、常時2名が農場を監視し続ける体勢が出来上がった。
翌朝、二人の若い男が農場の建物から姿を現した。ひとりは眼鏡をかけた顔色の悪い痩せ男で、他方は長髪にヒゲをはやしたヒッピー風だった。二人が出てきた母屋の隣には、ほとんど掘っ立て小屋と言っていいような納屋があり、二人はそこに入っていった。この納屋には鎧戸がなく、窓ガラスは薄汚れているものの、強力な双眼鏡を使えば内部がぼんやりと見て取れた。窓際には粗末な木のテーブルが据えられ、その上にはビーカーやメスシリンダー、精密秤などの簡単な実験器具が乗っているようだった。おそらく爆薬を調合するために用意されたものだろう。しかし二人は、それらの器具には手を触れず、奥の壁際でなにやらゴソゴソやっていたが、やがてヒッピー風の方が、埃だらけの緑色の瓶を何本か抱えて納屋から出てきた。どうやら昔ここで作られたワインが置き去りにされていたらしい。眼鏡の方は少し遅れて出てきたが、その手には燃料アルコールの小さなポリ容器を持っていた。一味はこれからアルコールランプで朝メシの支度らしい。監視していたグリーンベレーの二人は、アツアツのマフィンが恋しくなりながら、用意してきたビスケットと水筒の水で自分たちの朝食を済ませた。交替直後のもう一人は、野外毛布にくるまって眠っていた。
その後の二日間は何事もなく、ただ単調な監視が続いた。マクベリーはシャンティイーの宿屋で苛立ちながら、パリに無為な定期報告をして過ごした。またジェシカもザイコフに言われた通り、毎日、それも朝夕デッド・ドロップをチェックしたが、通信が入った様子はなかった。
一方ザイコフの方も、少し苛立ち始めていた。ジェシカと話した時点では、週の半ばには何らかの動きがあるだろうと読んでいたのだが、期待していた情報は未だに入らず、今日はすでに金曜日を迎えていた。
その朝ザイコフは、ランヌ通りのソ連大使館地下にある通信室に入った。このところ毎日のように顔を出すので、通信係の方もすっかり用件が分かっているらしい。その朝も彼が何も言わないうちに、担当官のひとりが小さな紙片を差し出した。受け取って素早く目を通すと、それは待ちわびていた情報だった。何とか間に合った。これで計画通りに事が運べるだろう。ザイコフは少しホッとし、それから部屋の奥をちらりと見やった。この通信室には常時3人の担当官がいるが、今朝いちばん奥に席を占めている男には貸しがあるのだ。相手の方も心得たもので、ザイコフの視線に気づくと小用を装って廊下に出ていった。通信室での用件が済んだザイコフも、それに続く形で部屋を出た。
薄暗い廊下で彼を待っていたその通信担当官は、モンマルトルの街娼を愛人にしていた。街娼とはいえ西側の女である。もし上部にバレれば厳罰ものだった。ザイコフは今年の3月に、ちょっとした偶然からこの男の情事に気づいたのだが、あえて上には報告しなかった。なにしろ相手というのがやっと20歳を過ぎたぐらいの若い娘で、頭の中身に回るはずだった栄養分まで身体を発達させる方に使ってしまったという感じの、どう見てもスパイなどできそうにないタイプなのだ。まず害はなさそうだったし、それならば無粋な邪魔はしたくなかった。ただし、本人には「知ってるぞ」とほのめかし、見逃した恩を買ってもらうことにした。以来この通信官は、ザイコフの頼みなら公私に関わらず、大抵のことは都合をつけてくれる。ザイコフはその権利をむやみに濫用せず、また頼む内容も穏当で、決して無理難題はふっかけなかったから、今ではなかなか良い関係が出来上がっていて、通信官の方もザイコフに対して好意的だった。
左右に人影がないのを見てとると、ザイコフは素早く彼に近づき、その耳元にひと言ふた言ささやいた。その頼みを聞いて通信官は驚いた顔をしたが、やがてちょっとニヤリとすると、人さし指で鼻の横を軽く叩いてウィンクした。ザイコフはちょっと微笑んで見せ、それからまたひと言ささやいた。
「で、君は今夜は遠慮してくれるね? できれば彼女を連れて余所に行って欲しいんだが」
「ああ、分かってるさ」
通信官はそう言って笑った。ザイコフはいつも悪いねと言うように相手の肩を軽く叩くと、足早にその場を離れていった。
その日の夕刻、あまり期待せずにデッド・ドロップを確認しに行ったジェシカは、通信が入ったことを示す小さなチョークの印を見つけて胸を踊らせた。回収した通信は2通。大急ぎで大使館に戻って暗号を解読すると、一通はクーリエの動向に関する情報だった。
《すでに入国した模様。今夜グループと接触する予定》とあったので、これはすぐにエドワーズ支局長に報告した。だがジェシカが狂喜したのは、もう一通の方だった。解読する前から何となく、これは私信だという確信があった。というのも、通信の裏にどこかの鍵がテープで貼り付けてあったからだ。解読してみると、果たしてそれは極めて艶っぽい誘いだった。
《午前2時、下記の場所にて。入室して待たれたし。そちらに同行者なくば、当方30分後に入室》
その連絡文の下には、モンマルトルの場所が記されていた。おそらく、小さくて目立たない宿だろう。すでに部屋が取ってあり、この鍵で先に中に入れということらしい。鍵をよく見ると、頭の四角い部分に赤い文字で203と部屋番号が書かれていた。