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報復

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 さて、とジェシカは考えた。現時点であのロシア人の運命は、こちら側に飛び込むかモスクワで消されるかの二つにひとつで、もはや誘惑して絡め取る必要はなくなっている。だが、ジェシカにとっては男たちが自分の色香に惑わされて、こういう艶っぽい誘いをよこしてくるのは快感だった。たとえそれが腹の出っ張ったオヤジとか、60過ぎの色ボケ老人でも、自分の美貌の勝利だと思えば勲章のようなものだった。ましてや今回は、あの若いロシア人、ハンサムで正装の似合う優雅なKGB将校が相手なのだ。CIAに与えられた役割としてでなく、個人的な楽しみとして、彼の相手をしたって構わないだろう。

 今夜クーリエが隠れ家に到着するらしいという情報は、即刻エドワーズからマクベリーに伝えられた。マクベリーは決定的な場面に遅れてなるものかと、急いで現場に向かった。農場側から見られないように道路をさけて徒歩で丘の裏側に周り、まず頂上まで登ると、後は這うようにしてグリーンベレーの3人が待機する中腹の斜面に向かった。すでに情報は無線で知らせてあったので、もはや眠っている者はなく、全員が戦闘準備に入っていた。こんな季節にもう3日も野宿していたというのに、特殊部隊で鍛えられた3人はまるで元気でリラックスしていた。こいつら人間じゃないな、とマクベリーは思ったが、もちろん口には出さなかった。
 やがて陽が落ち、辺りが暗くなってくると、グリーンベレーたちは異口同音に、確かにいつもと様子が違うと言った。監視を始めて3日間、彼らは一階の東側のひと部屋だけを使い、それ以外の部屋の窓から明かりが漏れたことはなかった。ところが今は、一階の真ん中に位置する二つの窓の鎧戸から、かすかな光が見えているのだ。また、彼らが納屋に入るのは日中だけで、暗くなってからは寄りつかなかったのに、今は納屋に明かりがついており、ときどき例の眼鏡の男が母屋との間を行き来していた。明かりがついたおかげで、暗い外からは納屋の内部がよく見える。眼鏡男はテーブルの実験器具や精密秤を点検しているようだ。今夜これから爆薬が届くのに備えていると見て間違いなかった。
 グリーンベレーの3人は、すでに襲撃作戦を立てていた。母屋の間取りこそ分からなかったが、周囲の地形や樹木の配置は観察し尽くし、どこに身を隠せるかとか、侵入はどこからかとか、連中の逃走を防ぐにはどこを抑えれば良いかなどを頭に叩き込んでいた。農場に潜んでいる一味は、これまでに確認できた限り4名。その中にベトナム帰りのアメリカ兵らしく見える者はいなかったが、母屋から出てこなかった可能性もあるし、学生どもに混じって見分けがつかないように外見を変えている可能性もあった。いずれにせよ、この計画の一味はすでにソンミ村の真相を聞かされているかも知れないから、今ここにいる者は全員ひっ捕まえて拘束するしかない。とはいえ相手は学生である。もし手ごわい者がいるとすれば、後からやって来るクーリエ(おそらくKGBの工作員)だけだろう。グリーンベレーは後々のことを考えて、機関銃は携行しないことにした。ここはアメリカの主権の及ばない外国である。こんな所で死人を出すことになるとまずい。身につけるのはハンドガンだけ、それも使用は極力避けることを確認しあった。
 農場の動きを見下ろしながら待つこと数時間。午前1時を回る頃、遠くの方に一台の車のヘッドライトが現れた。こちらに近づいてくるようだ。
「来たぞ」
 マクベリーは隣にしゃがんでいるグリーンベレーに囁いた。ところが彼は、あらぬ方向を見つめている。「おい!」
 特殊部隊のくせに肝心の時に注意をそらすとは何事だと思いながら、マクベリーが肩をつつくと、彼は人さし指を唇にあてて、やっと聞き取れるほどの小声でこう言った。
「あそこに誰か立ってますよ」
 指さされた方向に目をこらすと、北側の丘の頂上付近で確かに何かが動いたようだった。もうひとりのグリーンベレーは双眼鏡に目をあてながら、こちらも小声で囁く。
「男が二人。ひとりは双眼鏡を持ってますね。あちらさんも、農場を見ているようですよ」
「なんだと…? まさか…」
 なにやら嫌な予感がした。そこへ、少し前に小用に立った3人目の男がひっそりと這うように戻って来て、マクベリーの予感が的中していることを知らせた。
「この丘の裏側で、警察が運動会の準備をしてますよ。北と西に警官が10数名、パトカーが3台ずつ待機してます。あの車が農場に到着したら、たぶん丘を回り込んで取り囲むつもりですね」
 まずい。非常にまずい。いったい警察はいつの間に、このグループの存在を嗅ぎつけ、隠れ家までつきとめたのかと疑問に思ったが、今はそんなことより、彼らに先んじて農場の連中の身柄を確保しなければならなかった。
「今すぐ急襲をかけよう」
 マクベリーは決断した。
「向こうの車は逃げるだろうが、あっちはKGBのクーリエだ。作戦が失敗すれば黙って引き上げるはずだ。こっちは警察が飛び込んでくる前に、農場の連中を一ヶ所に集めて監禁する。警察には、アメリカの機密事項に関わる件だとだけ説明して、ひとまず逮捕を見送ってもらう。後でSDECEが出てくるかも知れないが、それはもう仕方がない」
「了解」
 それからの3人のグリーンベレーの動きは早かった。あっという間に暗い斜面を滑り降りると、二人は母屋の入り口を一瞬のうちにぶち壊して躍り込み、もう一人は納屋にいた眼鏡男が物音に驚いて飛び出してきたところを、腹部への素手の一撃で気絶させて担ぎ上げ、そのまま母屋に運び込んだ。わずか3分ですべてが終了した。銃声は一発も聞こえなかった。一味のメンバーは一室に集められ、特殊部隊員に銃を向けられて声もなく震えていた。ほとんど農場の前まで来ていたクーリエの車は、異変に気づいて慌ててアクセルを踏み込み、建物を素通りして東の方向へ逃げ去った。
 驚いたのは、丘の上から農場を監視していた警官2名である。大慌てで丘の両側に待機していた仲間に無線連絡を入れ、ただちに3台のパトカーが、農場を素通りして逃走した車を追跡しようと猛スピードで飛び出していった。残りのパトカーは農場の前に集まってきて、厳めしい顔つきの警部が制服の警官隊を引き連れて、壊された入り口から母屋に入ってきた。
 母屋の中ではマクベリーが警官隊を待っていた。警部からの抗議が予想されたが、こちらも毅然とした態度で対応するしかない。彼はCIAの身分証を提示して、口を開いた。
「逮捕の邪魔をして申し訳ない。しかし我々の方では、ここに潜んでいた連中が単なるテログループではなく、我がアメリカの機密に関わる陰謀を企んでいたという情報を掴んでいます。彼らのテロ計画は、失礼ながら警察で扱うレベルを超えているのです。ここがフランスだということは重々承知しているが、我が国の機密保持のため、やむを得ませんでした。警察には、お国の外務省にご連絡いただくと同時に、今回の逮捕を見合わせていただくよう、お願いしたい」
「外務省には、すぐにも連絡しましょう」
 警部は冷ややかな怒気を含んだ声で答えた。
「ところで、あなたがたは、逃走した車の方は何者だったとお考えですかな?」
作品名:報復 作家名:Angie