報復
「あれは単なる運び屋ですよ。ここに潜んでた連中の使い走りです」
それが爆薬を運んできたKGBのクーリエだなどと言えば、ますます騒ぎが大きくなると思ったので、マクベリーはあえて伏せた。警部は厳めしい顔に冷笑をたたえて言った。
「そうですか。なるほどねぇ。あんたがたも、とんでもないガセネタに踊らされたもんだ」
警部は努めて冷静に話していたが、その自制心もここまでだった。彼はついに怒声をあげた。
「ここに潜んでた連中は、テロリストなんかじゃない。麻薬密売組織の下っ端だ。我々警察は、あの逃げ去った車にこそ的を絞っていたんだ。あれには大量のヘロインと、組織の元締めが乗ってたんですぞ! 我々が何ヶ月もかけて捜査し、慎重に網を絞り込んで、今夜いよいよ大魚を捕獲するという時に、あんたが迷い出てきてメチャクチャにしちまった! いったいどうしてくれるんです!!!」
警部は真っ赤になって怒り狂い、マクベリーの頭の中は真っ白になっていった。
マクベリーが呆けたような顔で警部の怒声を浴びていた頃、ジェシカはモンマルトルで指定された宿を見つけて唖然としていた。いかがわしい場末の通りに建つそれは、どう見ても娼婦を買った男がしけこむ連れ込み宿だった。間違いではないかと思ったが、なんど確認してみても、アドレス、宿の名前とも指定どおりだ。一瞬ジェシカは引き上げようかと思ったが、とにかく鍵は手元にあるのだから、黙って個室に入ってしまえば、誰かと口をきいたり顔を見られたりしなくて済むと思い直した。こんな場所だからこそ、ザイコフはジェシカの身を慮って事前に鍵を渡したのだろう。確かにこういう所なら、宿泊名簿など偽名だらけだし、出入りする男女の数が多すぎて、宿の方でもいちいち顔を記憶してはいられない。そういう意味では安全だと言えなくもなかった。それにしても、あの優雅なロシア人が、いったいどんな顔をしてこんな宿の部屋を取ったものか、ジェシカにはまるで想像がつかなかった。
恐る恐る入り口を入ると、左手にあるフロントデスク(こんな所でもそういう呼び方をするのかどうか疑問だが)には人の姿がなかった。ジェシカはホッとしながら奥に進み、狭い階段から2階にあがった。203と書かれたドアは、階段のすぐ横にあった。鍵を取り出して鍵穴に差し込むと、すんなりとドアが開き、やはりこの場所に間違いなかったことが改めて証明された。部屋に入ってドアを閉めたジェシカは、そこで再び唖然とした。入ってすぐ右側に申し訳程度に仕切られたシャワールームがあるだけの、穴蔵のように狭い部屋で、その狭さにまったく不似合いのダブルベッドがでんと置かれている。残ったわずかなスペースには電気スタンドがあるだけで、他には何もなかった。
ジェシカは呆れてため息をついた。あのザイコフの外見から考えて、もう少しロマンチックというか、気の利いた逢瀬を期待していたのだが、この即物的としか言いようのない部屋では、どんなに彼が優雅で心地よい口説き文句を聞かせてくれたとしても、少々興ざめだ。いや、そんな風に口説いてくれるかさえ今では疑問だった。見た目によらず、意外と厚顔無恥な男なのではないかという気がしてきた。彼の妻が他の男に走ったことも、支局では彼が不本意な結婚を嫌ってそのように仕向けたのだと解釈していたが、あながちそうとも言い切れないようだ。それでもここまで来たのだから、今さらジタバタしても仕方がない。ひとまず相手をしてみて、気に入らなければ振ってしまえばいいのだと、ジェシカはどうにか自分を宥めた。
薄汚い部屋だったが、幸いなことにベッドのシーツは清潔だった。ジェシカは服を脱ぎ、特に念入りに選んだセクシーな下着姿になると、その上に寝ころんで相手がやって来るのを待つことにした。
それからおよそ20分後、一階で騒ぎが始まった。最初に大きな物音がしたかと思ったら、複数の男の怒声と女の悲鳴が聞こえてきた。ジェシカは何事かと思って跳ね起きた。一瞬、ザイコフを尾行してきたKGBが踏み込んだのかと思ったが、すぐにそんなはずはないと思い直した。KGBなら、こんな騒ぎを起こしたりせず目的の部屋にだけ素早く踏み込むだろうし、踏み込むなら現場を押さえるためにもザイコフの到着を待つはずだ。とすれば階下の騒ぎは、下っ端のギャングが情婦をめぐる争いでも始めたのだろう。ジェシカはそう思って、再びベッドに腰を落ち着けた。ところが次の瞬間には、乱暴に階段を駈け上がってくる足音が聞こえたかと思うと、誰かが203号室のドアに体当たりを始めた。ジェシカが慌てて立ち上がったと同時に、安っぽい鍵はあっけなく壊れてドアが開き、青い制服を着た警官が二人、部屋に雪崩れ込んできた。
それと同じ時刻、一方のザイコフはランヌ通りのソ連大使館の奥で、パブロフ参事官と差し向いで座っていた。その日の夕刻に外で食事を共にした後は、モンマルトルでの約束など気にかける様子もなく、ずっと参事官のオフィスに残っていたのだ。ほどなくして、参事官がちらと時計に目をやりながら「そろそろだな」と言った。ザイコフはゆったりと落ち着き払って頷き、自信あり気な表情を見せた。
この参事官、ヴラジーミル・ステパノヴィチ・パブロフKGB大佐は、駐在官オフィスのトップとして極めてまっとうな男だった。5年前、前任者のアナトーリィ・ボロディンがCIAの女に引っ掛けられたせいで総崩れになったパリのオフィスを引き受け、再び正常に機能するところまで建て直したのだから、敏腕家と言っていい。組織を統率していくだけの器があり、部下に接する態度は客観的で公平だった。昨年の春にザイコフが赴任してきた時も、その経歴を見て何も思わなかったはずはないが、ともかくモスクワが手許で4年間も様子を見た上で送ってきたのだからと、彼を色眼鏡で見ることはしなかった。そういうパブロフの態度には、ザイコフは感謝もしていたし、敬意も払っていた。
9月半ばにジョン・マクベリーがCIAへの協力を打診してきた日、ザイコフはその足で大使館に戻り、まだオフィスにいた参事官に全てを報告した。そして、徴募されたフリをして欺瞞工作を仕掛けることを提案したのだった。ザイコフの提案は採用され、以後パリ駐在官オフィスの全面的な支援のもとに、彼は《CIAのために働く二重スパイ》の役を演じてきたのだ。その最大の目的は、裏切り者・ゴールキンの居所をさぐって奪回を図ることにあった。また、偽情報を流してCIAパリ支局を混乱させ、その機能を一時的にでも麻痺させるという二次目的があった。つまり、これまでザイコフがマクベリーやジェシカに渡してきたKGBの内部情報のほとんどは、彼がパブロフ参事官やモスクワ・センターと協議して特別に仕立てた偽情報だったのである。
むろん偽物ばかりで騙し通すことは不可能だと思われたから、最初に流したエージェント情報には一部本物を混ぜ込んだが、それもモスクワの許可を得たものだ。あの時は、切り捨て可能な連中と温存すべきエージェントの選別に関して、パリ駐在官オフィスとモスクワの意見調整に二週間もかかってしまった。そこでとにかく頭数を出して、返信が遅れたことを説明できるようにしたのだ。