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報復

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 チューリヒのアメリカ大使館に飛び込んだ亡命者は、ザイコフの作り話に合わせて大急ぎで仕立てられた工作員で、当初の計画では彼は、もう少し長く持ちこたえるはずだった。そして、この欺瞞工作が終了すると同時に彼をセーフハウスから脱出させるつもりで、最初から尾行をつけておいたのだ。ところがCIAが思いがけない手を使って、予定外に早く彼の正体を暴いてしまった。にわか仕立ての亡命者だけに、充分なブリーフィングは施していない。偽物と断定されて容赦のない尋問が始められたら、余計なことをしゃべる恐れがあった。ジェシカからペーロフの正体が暴かれたことを聞いて、ザイコフがドフィーヌ門の公衆電話から大使館に報告を入れた時には、すでに尾行班から報告を受けたモスクワがペーロフ抹殺を決定していた。パブロフ参事官からその決定を聞かされたザイコフは、ただひと言「残念です」と言った。それは今回の計画における最初の、そして唯一の失点だった。
 マクベリーが監視している《極左テログループ》も、実は単なる麻薬密売グループに過ぎない。これは例の通信担当官が戯れに警察無線を傍受していて拾ったネタだが、それを聞いたザイコフが、CIAには無視できない謀略を盛り込んだもっともらしいシナリオを被せ、内部情報を装って流したのだった。それ以来、大使館地下の通信室では常に警察無線を傍受して、事の成り行きを追いかけていた。通信室の担当官たちは高度な技術を持った専門家で、しかるべき設備さえあればリビアの砂漠でムハバラトが囁き交わす微細な電波でさえ、パリに居ながら拾ってみせると自負していたから、警察無線の傍受などという児戯に等しい仕事を命じられて侮辱を受けたという顔をした。だがザイコフにとっては、それはタイムリミットを計算する上で重要な情報である。ほとんど毎日のように通信室に通っては、警察がどう動いているかをチェックしつつ、CIAに架空のテログループの隠れ家を知らせるタイミングを計った。
 ザイコフは、隠れ家の場所を知らせた途端、CIA側も警察無線の傍受を始めるのではないかと恐れていた。あまり早く知らせて、計画の底が割れては困る。だが幸いなことに、パリ警察の方でも無線が傍受されやすい事は知っていて、問題の隠れ家のことは「例の空き家」と呼ぶようになっていた。CIAの関心は《爆弾テロを計画中の学生グループ》を警察が嗅ぎつけるかどうかであり、隠れ家の所在地が一致すると知れない限り、麻薬密売組織に関する情報は傍受しても無視するはずだとザイコフは読んだ。そして実際、その通りだったのだ。
 また、ザイコフもそこまでは計算していなかったのだが、問題の隠れ家に化学実験器具が持ち込まれていたことは、マクベリー達に彼らが爆弾テログループであると確信させる効果をもたらした。実はそれらの器具は、ヘロインの純度を調べ、混ぜ物をして量を水増しするために使うものだったのだが、事前に爆弾テログループのアジトと聞かされていたアメリカ人たちの目には、それがいかにも爆薬を調合するための用意に見えたのである。
 ちなみにソンミ村事件の真相をKGBが掴んでいたのは事実である。だが、それを暴露してアメリカの体面を傷つけるような真似はすべきでないというのが、第一総局の大半の意見だった。国そのものに恥をかかせれば、必ずどこかで同様の報復が返ってくる。そんなことを繰り返したら、今のところベトナムで局地的に行われている戦争が、世界的な規模に拡大するかも知れない。東欧諸国や中国でソ連離れが進みつつある今、徒にアメリカを刺激して事を構えるわけにはいかないのだ。そういうわけでKGBは沈黙を守り、結果としてソンミ村の真相は、翌1969年12月に《ザ・ニューヨーカー》誌がスクープするまで、いっさい表面化することはなかったのである。
 さて、問題の密売グループも、いよいよ今夜パリ警察に摘発される見通しだった。つまり、ザイコフの提供した情報は今夜を限りに黄金から石ころに化け、彼の《二重スパイ》としての芝居も幕切れとなる。
 だから、今夜は山場だった。
 現在ゴールキンの身柄は、イギリスのアルコンベリー米空軍基地内にあることが判明していた。これは先のレセプションの際に、マクベリーがポロリと「アメリカの主権が及ぶ場所」などと口を滑らせたおかげである。ザイコフは気づかないフリを装いながら、しっかりと耳に入れていた。それはつまりアメリカ本土ではなく、国外のアメリカ公館または軍事施設を指したものと思われた。政府にとって重要な存在となった亡命者を、あえて国外に送り出すとすれば、CIAの姉妹機関たるSISの事情聴取に応じるためとしか考えられない。しかもイギリスには、10年か15年後には中国を相手にした香港返還交渉が始まるという事情があった。そろそろ中国研究を本格化させるためにも、ゴールキンの知見は聞いておきたいと考えるだろう。ゴールキンは間違いなくイギリスのどこか、それもロンドンからあまり遠くない所にいるはずだと、ザイコフは推論を下した。その結果ロンドンのソ連大使館では、選り抜きの通信担当官3名が18時間の重労働を強いられたわけだが、彼らの労力は無駄にはならなかった。
 この件についてマクベリーがうっかり口を滑らせたのは、ザイコフにとって大いなる僥倖だった。もしそれがなかったら、比較的ガードの緩そうなジェシカに誘導質問をかけて、ゴールキンの所在を聞き出さなければならなかっただろう。
 とにかく、標的はアルコンベリー基地にいた。その身柄を今夜中に確保できるかどうかが、今回の工作全体の成否を決める。いま、ザイコフとパブロフ参事官は、イギリスからの奪回成功の一報を待っているのだった。

 ロンドン時間の午前1時30分頃、イギリスのアルコンベリー米空軍基地に一台の黒塗りの車が入っていった。ゲートの係官は、そんな時刻に訪問者があるとは聞いていなかったが、運転手を務める若い男はアメリカ空軍少尉の肩章をつけていたし、後部座席に座った男は中佐の身分証明とペンタゴンの公用箋にしたためられた命令書を持っていた。それは、現在この基地に身柄を預けられているロシア人亡命者を、同じくイギリス国内にあるベントウォーターズ米空軍基地へ、極秘のうちに移送せよと命じていた。後部座席の空軍中佐は、次のような説明を補足した。
「その亡命者は今後、アメリカ政府にとって非常に重要な存在になるだけに、KGBの暗殺部隊が血眼になって狙っていると思われる。すでに彼がここにいることは察知された恐れがあるため、CIAの要請で、今夜中に極秘で彼をベントウォーターズに移送することになった。どこから情報が漏れるか分からないというので基地には事前連絡を入れなかったが、これは秘密保持のためとご理解いただきたい。この命令を知っているのはペンタゴンやラングレーでも幹部数名に限られているから、電話その他での問い合わせも控えていただきたい。命令書のサインを見れば、その重要性はご理解いただけると思うが」
 言われて係官は命令書に記された名前と、その下の署名を見た。なんと国防長官じきじきの命令だった。係官は姿勢を正して敬礼し、その車を通すべくゲートの遮断機をあげた。
作品名:報復 作家名:Angie