報復
そう言うエドワーズの口調は、まるで好意的なものだった。後ろで聞いていたジェシカは、はらわたが煮えくり返る思いだったが、こうした態度は、真のプロフェッショナルには往々にしてあることだった。結局のところ、プロとしての実力に敵味方の区別はないのだ。相手の手際があまりに見事だと、悔しがるよりも感嘆する気分の方が強くなってしまう。
それはザイコフの方も同じだった。属する組織は違えど、エドワーズはまぎれもなく諜報の世界に生きる先達である。その彼が、自分の力量を認める態度を示したことに、素直な謝意を表したいと思った。
ザイコフはすっと背筋を伸ばし、儀礼的ではない本物の微笑を浮かべると、エドワーズの目をまっすぐ見つめ、それから軽く一礼した。そして踵を返すと、それきり振り向かずに視察団一行の待つVIP専用ラウンジの方へと歩き去った。言葉はなかったが、エドワーズにはそれで充分だった。
空港から大使館に戻る車中で、エドワーズはじっと考え込んでいた。ジェシカはきゃあきゃあと抗議を申し立てていたが、ひと言も耳に入らなかった。あの生意気なほど有能な若いロシア人は、エドワーズの思考力を試すかのように、奇妙な謎をかけたのだ。
あの外務省の秘書官を使っているのは、いったい何処なのか。
それを調べようと思えば、SDECEに情報を流してフランス側で調査させるのが最も手っ取り早いし、また手順としても正当だ。だが、ザイコフのあの口ぶりは何かひっかかった。その答えを教えることはサービス過剰であり、しかも彼の権限を越えるという。まるでその答えには、調査の手間を省く以上の何かがあると言いたげだった。もしかすると、フランス側に知らせて正式に調査させると、何らかの問題が生じるのかも知れない。だとすればそれは、KGBを喜ばせる類いの問題であるはずだ。そう考えれば、彼が答えを教えようとしなかったことも、大いに頷ける。
では、その問題とは何か。どういう問題が起こるとKGBが喜ぶのか。複数の可能性が考えられたが、とにかくそこでエドワーズはひとつの結論を出した。まだSDECEには知らせるべきではない。たぶん彼らが答えを知ると、その問題が起こるのだ。こちらで適切な手を打つまでは、伏せておく方がいい。
大使館に戻ったエドワーズは、自分のオフィスで考え続けた。残り時間はわずかだった。マクベリーとジェシカの2件の不祥事で責任を問われたエドワーズは、後任が決まり次第、パリ支局長の任を解かれ本国に呼び戻されることになっている。ザイコフのかけた謎に答えを出したければ、冒険するしかなかった。
まずはいちばん可能性の高そうな所に、カマをかけてみるか…
エドワーズは肚を決め、さっそくデスクの防諜電話を取り上げた。
それから約3時間後、フランス共産党の公式視察団がモスクワのシェレメチェヴォ国際空港に到着した。ファーストクラスの彼らは他の乗客に先んじて機を降りると、形ばかりの入国審査と手荷物の税関検査をすませて到着ロビーに出た。パリで預けたトランク類は、後から空港職員がひとまとめにし、政府派遣のメッセンジャーが先生方の宿泊先に送り届けることになっている。
到着ロビーには中央委員会の歓迎陣が待ちかまえていて、速やかに視察団一行をリムジンのところまで案内していく。その歓迎陣に混じっていた一人の男が、視察団に随行してきたザイコフに歩み寄り、何か小声で耳打ちした。ザイコフは頷くと視察団一行を離れて、男の案内に従った。パブロフ参事官を通して願い出たザイコフの希望が、モスクワ本部に許可されたのである。
案内役の男は国内線ターミナルのはずれにある一般乗客の立ち入りを禁じた区域までザイコフを導き、とある部屋のドアを開いた。そしてザイコフを中に入らせると、しばらく待っているようにと言いおいて出て行った。やがてムールマンスクからの国内便が着陸し、駐機場に向けてゆっくりとタクシーイングを始めた。ザイコフは、その狭い部屋の壁際に置かれた簡易テーブルに腰を引っかけて、静かに待った。
その男も、他の乗客に先駆けてファーストクラスから降りてきたが、フランス共産党の視察団一行とはまったく様子が異なっていた。手錠で両手の自由を奪われた上、左右を屈強の若い警備官2名に挟まれて失神せんばかりに青ざめ、さらにもう一人の男に先導されて、ほとんど引きずられるように歩いていた。その異様な一行は、一般乗客の目を避けながら空港ビルに入ると、やがてザイコフの待つ特別室にやってきた。先導の男がドアを開け、中で待っていたザイコフに目で頷き、二人の警備官に囚人を部屋に入れるよう命じた。連れ込まれた哀れな囚人は脅えた表情で室内を見回したが、そこにザイコフの姿を認めると、驚愕の色を浮かべて目を見張った。
「我々はドアの外で待機します。許可は10分間です」
一行を先導してきた男は、きびきびした態度でそう言うと、二人の警備官を伴って廊下に出た。ドアが閉まると、ザイコフは普段と変わらぬ穏やかさで、かつての上司に声をかけた。
「久しぶりですね、イワン・フョードロヴィチ」
「…アレクサンドル・マクシモヴィチ! なぜ君がここに? 君はパリにいるはずじゃ…?」
「つい先ほど、モスクワに着いたところです」
「まさか…君も連れ戻されたのか? だが、それにしては…」
ザイコフは苦笑した。どうやらゴールキンには、こうなった理由が未だに分からないようだ。
「私は単に帰国したのですよ。あなたとの面会は特別許可を得ています。CIAに推薦していただいた礼を言っておきたいと思いましてね」
「何だって…?」
ゴールキンの目が疑わしげに光った。
「君は彼らに協力していると聞いたが、すると、早くも寝返ったのか?」
「私は一度も寝返ってませんよ。せっかく招待を受けたので、少し利用させてもらっただけです。おかげでまずまず評価される仕事ができた上、あなたの居場所を知ることができたわけです」
それを聞いたゴールキンは目を剥き、囚われの立場も忘れたように怒りで顔を赤くした。
「では、君がやったのか? 君が率先して私を捕らえたというのか!? 北京では、私は君にはずいぶん目をかけたはずだが、その私を、君は裏切ったんだな!」
「人聞きが悪いな。祖国を裏切らなかったと言って欲しいですね」
「何が祖国だ! その祖国やKGBが、いったい君に何をした? 愛した女を奪われ、濡衣を着せられ、肉親の訃報にも帰国を許されず、一方的に傷つけられて苦しんでいたのは君だったじゃないか!」
またか…。ザイコフは顔をしかめた。これで何度目だろう。この無神経さは何なのだろう。いったいゴールキンは自覚しているのだろうか。
ザイコフにとってのゴールキンの罪は、亡命したことでもなければ祖国を追いつめるプランを敵国に提供したことでもなく、彼の過去の傷を吹聴し、寄ってたかってつつくよう仕向け、堪え難い痛みを与えたことだった。その傷を、彼を動かす目的に利用したことだった。だから、その代償を支払ってもらったのだ。
「分かったようなことを言わないでいただきたい」
足下の床を見るともなく見つめながら、ザイコフは静かに抗議した。だがゴールキンはやめなかった。