報復
「分かるから言うんじゃないか! 君はいったい何のために、そんな国や組織に仕えてるんだ?! KGBなどに忠誠を誓って、なぜ私を裏切るんだ?! 選りにもよって、この私を! 少なくとも私は君の能力をまっとうに評価し、親身になって……」
「イワン・フョードロヴィチ」
恩着せがましくまくし立てるゴールキンを鋭い声で遮ると、ザイコフは顔を上げ、真正面から相手を見据えた。青い双眸が凍りつくような怒りに燃えている。ゴールキンは思わず後退った。
「あなたが、私の古傷を抉らせたりなどするからだ」
ザイコフはゆっくりと冷たく言い放つと、身動きもできずに立ちすくんでいるゴールキンの横をすり抜けて入り口のドアを開き、例の係官に入ってくるよう促した。係官は時計を見て言った。
「まだ2分ありますが」
「もう充分です。お手間を取らせて申し訳なかった」
ザイコフが言うと、係官は頷いて二人の警備官に目配せをした。再びゴールキンは、岩のような体格の男たちに両脇を捕らえられ、絶望の表情を浮かべてうなだれた。引き立てられて行く先はレフォルトヴォ監獄である。そこで彼がどういう扱いを受けることになるかは自明だったが、ザイコフはあえて考えないようにしていた。そんなことは、考えたくもなかった。
「さようなら、イワン・フョードロヴィチ。もう会うことはないでしょう」
そう声をかけたザイコフの目には、先ほどの凄まじい怒りはすでになく、ただ哀れみの色だけが浮かんでいた。ゴールキンはもう何か言う気力もないらしく、先導の係官が急き立てるまま、無言で廊下を引きずられて行った。
開け放った戸口に寄りかかり、連行されていくゴールキンの後ろ姿を見送りながら、ザイコフは考えていた。何故KGBに仕えているのか。同じことはCIAにも訊かれたが、いくら胸の内を探っても、そんな理由など見つからない。また、仕えているという意識さえ希薄だった。今の組織に留まるのはただ、この国を捨てる気になれないからだ。さらにその理由を問われるならば、ここが祖国だからと答えるしかないだろう。
確かにソヴィエトという国家には、あり過ぎるほどの問題がある。欺瞞と矛盾に満ちた社会システムや偏狭に過ぎる思想統制などには、ザイコフ自身が、しばしば幻滅を感じている。
だが、ザイコフにとっての祖国とは、そんな問題を抱える「国家」ではない。この懐深く美しいロシアの大地こそが祖国だった。夏至の頃の暮れ切ることのない夜空であり、氷点下の冬を白銀に染める雪であり、広大な白樺の森であり、大きく蛇行して流れるモスクワ川だった。合法駐在官となった今は、これら祖国の風景を遠く離れた外国から偲ぶほかないが、だからこそ、自分の帰るべき場所はこの国以外にあり得ないと思うのだ。過去にどれほど不愉快な思い出があろうとも、ロシアの大地と縁を切ってアメリカで生きていく自分の姿など、想像することもできなかった。そこがゴールキンには読めなかったのだ。
そして、この国に留まろうと思うなら、KGB第一管理総局ほどザイコフに適した組織もなかった。もしCIAのアメリカ人がこれを聞いたら眉を吊り上げることだろうが、ソ連という国家にあって他のどこよりも思想的に中庸な組織は、実はKGB第一管理総局なのである。対外諜報活動という業務の特性上、対象国の人間の価値観や考え方を理解し、分析するには、ニュートラルな視点が要求されるからだ。KGBでも国内の秩序や思想統制を管轄する第二・第五管理総局あたりでは、また空気も違っているのだろうが、とにかくなぜKGBに身を置くのかという問いに強いて答えを出すならば、それが理由ということになる。あくまで帰納的な結論だ。
ザイコフはひとつ小さくため息をつくと、用の済んだ部屋のドアを閉めて空港を出た。物思いに浸っているヒマはなかった。空港での用事を済ませたら、すぐにヤセネヴォの第一管理総局本部に来るようにと言われているのだ。