報復
1933年11月2日生まれ、今年8月現在34歳。54年にモスクワ大学法学部を卒業し、大学院に進んだが、55年、発足したばかりのKGBにスカウトされて院を中退。情報官の訓練を受けると同時に外務省の高等外交官養成学校で正規の外交官教育を受け、58年に合法駐在官としてブダペストに着任。本来の専門は西ヨーロッパでも、最初の任地は東ヨーロッパというのは、新人教育に安全な国が選ばれたと考えれば頷ける。しかも当時のブダペストではユーリィ・アンドロポフがソ連大使を務めていた。彼がKGB議長に就任したのは昨年だが、あの頃にはすでに実力者と目されていた。そのアンドロポフに期待の新人をお目にかけようという意図もあったと思われる。つまり、ここまでは完璧なエリートの経歴だ。もし順調に進んでいれば、ブダペストの次にはロンドンあたりで数年間を過ごし、いくつか適当な実績を挙げたところでモスクワに呼び戻されて、それきり国外に出ることなく幹部への道を進んだはずだ。
ところがある事件をきっかけに、アレクサンドル・ザイコフはエリート街道を踏み外し、極めて珍しい経歴をスタートさせていた。西ヨーロッパ専門に教育された男が、何の脈略もなく5年間も北京に在任し、その後モスクワに戻ってからの4年間は、合法駐在官として訓練されたにも関わらず、非合法工作本部で過ごしている。ソーントン作戦本部長の言葉を借りれば、これはまさに《異常》だった。
そんなことになった事情については、北京時代の上司であるゴールキンの証言がメイヤー・レポートに書かれているが、CIAパリ支局のエドワーズは、さらにその裏付け情報も握っていた。パリ支局では62年に、当時のKGBパリ駐在官オフィス代表だったアナトーリィ・ボロディンを女を使って篭絡したことがあったが、これが実は58年のブダペスト事件でザイコフに濡衣を着せた張本人だったのである。
CIAが差し向けた女にボロディンが得意げにしゃべりまくった内容は、録音テープに隠し撮りされ、すべて文字に起こされて残っている。それはメイヤーがラングレーの資料室で見つけた報告書の元になったものだが、当時はアレクサンドル・ザイコフなどという男に特別な興味があったわけでなく、単にパリ駐在官オフィスのトップを陥れるのが目的だったから、ラングレーに送った正規の報告書ではザイコフに関する記述は大幅にカットされていた。いま改めて、そのボロディン発言の原本を読むと、ゴールキンの証言よりもさらに詳細で生々しいザイコフの《事情》が見えてくる。
動機は確かにある、とエドワーズは思った。それも極めて人間的・感情的な動機だ。人が裏切り行為に走る理由には様々あるが、金銭欲や栄達欲などに比べ、こういう感情的な動機は格段に強い。だが、それでもこのザイコフという男の場合、本気でCIAの誘いに乗ってくるかどうかは五分五分だとエドワーズは考えていた。恋人を奪われ、濡衣を着せられて、専門外の部署に計9年間も放り込まれながら、なお唯々諾々と命令に従っているのが気に入らなかった。むろんそれは、かの国で無難に身を処すための方策とも考えられるが、そうだとすれば小物だ。ゴールキンのあの絶大な評価に値する男とは思えない。しかし、彼の初期の経歴を見ると、ゴールキンの評価が過大であるとも言い切れないのだ。
もしかするとこの男には、表立っては見えない何か、これだけの事情を抱えながらも捨てることのできない何かがあるのではないか。そして、その何かゆえに『向こう側』に踏みとどまる固い決意を持っているのではないか。それがエドワーズの懸念だった。
「…しかしまあ、とにかくやってみるか」
エドワーズは独り言を呟いた。釣り針を投げて、もし彼がかかってきたら、まずは徹底的に疑ってかかることだ。そう肚を決めたエドワーズは、インターホンを押して隣室の秘書に命じた。
「ジョン・マクベリーとジェシカ・ハミルトンを呼んでくれ。私の部屋に来るようにとね」
ジョン・マクベリーは中肉中背の目立たない男だが、27歳から42歳のこの歳までCIAで諜報員を務めてきた叩き上げで、KGBと渡り合ったことも一度や二度ではない。エージェントを獲得・運営した経験も多い。ただ、それらのエージェントは金銭目的の暗号係とか主人に不満を持つ運転手などが主で、KGB将校クラスをターゲットにしたことはなかった。それだけに、支局長から呼び出された理由を説明された時には、大いに意気込みを見せた。もし巧くこのクラスのエージェントを獲得でき、しかもそれが本物ということになれば、彼自身の栄達に繋がるのだから無理もない。
一方のジェシカ・ハミルトンは見事なブロンドにグリーングレーの瞳を持つ際立った美人で、人込みに紛れてもパッと目を引く華やかさを備えている点は、マクベリーとは対照的だった。今年30歳を迎えてその美貌に大人の色香が加わり、まさに匂い立つようだった。本人も自分の美しさは自覚していて、それを仕事上の強力な武器だと考えていた。特に色仕掛けを専門にしているわけではないが、利用できる時には大いに利用するつもりだった。
呼び出されて間もなくやってきた両名に、エドワーズ支局長はアレクサンドル・ザイコフKGB中尉の獲得計画についてブリーフィングを行い、メイヤー・レポートと62年のボロディン発言の記録を渡して、ターゲットを研究しておくよう言い渡した。