報復
それから3日後、ジョン・マクベリーは行動を起こした。
西側のソ連大使館に駐在するKGB要員は、常に大使館の出入りを監視されており、尾行がつくことも多い。それは尾行される側も承知していて、特別な行動をとる予定がない限り勝手に尾けさせておく。その晩、大使館を出たザイコフも、背後のCIAエージェントを特に気にかける様子はなかった。向こうにまく気さえなければ、190センチの長身は滅多なことで見失うものではない。エージェントは大きく距離を保ちながらついてゆき、その男が一軒の古くてこぢんまりしたバーに入ったところでマクベリーに連絡した。マクベリーは場所を訊ね、もし自分の到着前にターゲットが店を出て行ったら知らせるようにとだけ指示し、さっそくそのバーに出かけていった。尾行者を気にしていなかったというのだから、そのバーに入ったのは《会合》ではない。たぶん個人的に一杯ひっかける気にでもなったのだろうとマクベリーは思った。それなら、しばらくは同じ店に留まっているはずだ。行って様子を見て、チャンスがあればアプローチをかけるつもりだった。
アレクサンドル・マクシモヴィチ・ザイコフは、その小さなバーの片隅で、あまり好みでないスコッチウィスキーのグラスを傾けながら、ぼんやり物思いに耽っていた。その日、KGBパリ駐在官オフィスを率いるパブロフ参事官が、7ヶ月前に離婚したザイコフのもと妻がモスクワで別の男と再婚したことを、いくぶん同情気味に教えてくれた。それで、独りで祝杯をあげていたのだ。
その相手というのが、これまた数カ月前までパリの大使館に一党書記官として勤務していた男で、KGB駐在官ではない本物の外交官だった。要するに彼女は、ザイコフとの離婚に先立ち、すでに乗り換える先を確保していたということだ。
もっともそれは、ザイコフ個人にとってはどうでも良いことだった。形ばかりの妻が浮気をしようがその相手が誰だろうが、彼は気にも留めなかった。それでも彼の公的な立場にとっては、彼女がそういう相手と再婚したことは大きな意味を持っていた。つまり、離婚に至った直接の原因は彼女の方にあったと、周囲の誰もが受け止めたのである。
ソ連でも離婚は珍しくなかったが、外交官身分の者が駐在先の外国で離婚となると、事情は少し違ってくる。スキャンダルに繋がるとして処罰の対象にもなり得たのだ。だが今回の場合は妻の側に非があり、夫に問題はなかったと見なされ、おかげでザイコフは処罰を免れることができた。
もと妻・リータと結婚したのは1965年のことだった。それより2年前、かつての上司アナトーリィ・ボロディンが女性関係で大失態を演じて失脚し、当人の供述でブダペスト事件におけるザイコフの関与や過失がようやく否定されて、彼は北京から呼び戻された。そしてモスクワの非合法工作本部に配属され、極東関係の工作に補助的に携わることになった。そうして1年半ほど経った頃、直属の上司が適当な女性を紹介してやるから身を固めろと言う。ザイコフはやんわり断ろうとしたが、その上司は強引で、最後にはザイコフも、これは命令なのだと悟らざるを得なかった。北京からは呼び戻されたものの、彼本来の専門であるヨーロッパ方面の合法駐在官には復帰させてもらえず、モスクワで非合法工作本部に据え置かれた理由は、長い北京駐在で彼に反抗心が芽生えていないかどうかを観察するためだと分かっていた。さらに今、いきなり身を固めろというのは、ブダペストの一件を根に持っていないなら、それを証明しろということに違いない。
よろしい。そんなことで人の忠誠心が証明されるというのなら、いくらでも証明してやろう。そう肚を決めたザイコフは、抵抗するのをやめた。
こうして65年1月に、彼はマルガリータ・ペトロヴナに引き合わされた。MGIMO(国立モスクワ国際関係大学)の経済学教授で、ソヴィエト科学アカデミー会員でもあるピョートル・プリマチェンコを父に持ち、本人は財務省官僚の秘書をしているということだった。リータはザイコフの優雅な容姿と礼儀正しくソツのない物腰を見て、すぐ彼との結婚に乗り気になり、おかげであっという間に話はまとまった。ザイコフはまるで他人事のように受け止めながら、きちんと必要な手続きを踏み、その年の3月初めには正式に彼女と結婚した。
そして、それきり彼女を放ったらかしたのである。
ザイコフにとってその結婚は命令でしかなく、したがって婚姻が成立した時点で完了したものと見なしたのだ。むろんリータとは一緒に暮らすことになったが、彼女のことはただの同居人として扱い、それ以上の関心を払わなかった。ごくたまに彼女の求めに応じて抱くこともあったが、それは単に男としての生理的な欲求に従ったに過ぎず、相手は誰でもいいようなものだった。そういうザイコフの態度は、行為の間いっさいリータの顔を見ようとしないこと、従って絶対に唇を重ねたがらないことに、顕著に現れた。心と身体は別物だと割り切って抱く女には、顔などないと思うからだ。
リータは容姿は十人並みだったが、権威ある父親のおかげで幼い頃から特権階級に属していたために、誰もが自分を尊重し、もてはやすのが当然と思う傲慢さを身につけていた。そんな彼女には、ザイコフの態度は堪え難いものだったらしい。結婚して1年ほどたったある日、リータはザイコフの真正面に椅子を据え、膝を突き合わせるように座ると、改まってこう訊ねた。
「サーシャ。あなたは私のことが嫌いなの?」
「嫌いだと言えるほど、私は君のことを知らない」
ザイコフは正直に答えた。その場限りの美辞麗句を適当に並べて逃れようとしないだけ、まだしもそれは誠意だったのだが、リータは彼の返事に憤慨した。
「知らないって…、だって私たちは結婚してるのよ!」
「然るべき手続きさえ踏めば、誰とだって結婚はできるさ」
「じゃあ、どうして私と結婚したの?」
「それが命令だったからだ」
そう答えた途端、リータの平手が飛んできた。ザイコフはそれを甘んじて受けた。
「恥知らず! よくもそんな事が言えたわね!」
「では訊くが、君はどれだけ私のことを知っている? どうして私と結婚したんだ?」
ザイコフにそう訊き返されて、リータはぐっと答えに詰まった。結局は彼女も、外見だけで結婚する気になったからだ。ザイコフは続けた。
「私には選択の余地がなかったが、君にはあった。その君が、どんな理由でかは知らないが、私との結婚を選んだんだ。今こうなってるのはその結果だ。私に責任を押しつけないで欲しい」
そんなやり取りがあって以来、二人の関係は以前にも増して冷たいものになっていった。いつリータが離婚を切り出しても不思議はなかった。立場上、自分から切り出すわけにはいかないザイコフは、彼女が決断するのを待っていた。