報復
それでもザイコフのパリ駐在が決まると、リータは喜んでついてきた。パリで暮らすということに一種の幻想を抱いていたらしい。けれど現実は彼女に厳しかった。たとえ父親が特権階級に属していようと、あくまでソヴィエト一般市民でしかない彼女には外国の街を勝手に歩き回ることなど許されず、ほとんどいつも大使館職員用のフラットに閉じこもって、同じく大使館員を夫に持つ女性たちとお茶を飲み、おしゃべりして暇をつぶすしかなかった。頻繁に催される外交関係のパーティも、最初のうちこそ夫・サーシャの優雅なエスコート(それが表面的なものであれ)で華やかな場に出られるとあって喜んでいたが、やがて何の気晴らしにもならないことを悟った。サーシャにエスコートしてもらえるのは会場に入る時と出る時だけで、パーティが続く間、サーシャは英・仏・独語を自在に操って外国人たちと交流することに集中し、彼女には見向きもしてくれない。それが彼の仕事であれば文句も言えず、外国語がわからないリータは退屈を持て余しながら、ただパーティの終わるのを待つだけなのだ。その間、会場の片隅に集まっている同国人たちと無為なおしゃべりをして過ごすのでは、普段と何も変わらなかった。
そんな時の同国人仲間のほとんどは、いつもフラットで顔をあわせる女性たちだったが、しばしば正規のソ連外交官たちが何人か加わった。彼らは仕事柄、当然フランス語も英語も話せたが、KGB駐在官とは違って自由に外国人と接することを制限されていたからだ。おそらくリータはそうした機会に例の一党書記官と知りあい、ザイコフが駐在官オフィスにこもって帰らない夜などに、仲を深めていったのだろう。
こうしてパリに来て9ヶ月ほど経った頃、とうとうリータは離婚を切り出し、ザイコフは反論も試みずに同意した。リータとザイコフを娶せた非合法工作本部のもと上司が、何やら横槍を入れてはきたが、最後にはリータの父親であるプリマチェンコ教授が科学アカデミー会員の威光でその上司を黙らせて、すんなりと離婚は成立し、リータはモスクワに帰っていった。どうやら教授はあの段階で、娘が別の男に乗りかえたがっていることを、すでに知っていたらしい。ザイコフの方には騒ぎ立てるなと言ってきたし、相手の外務官僚もKGB将校の妻を寝取ったことを咎められもしなかった。
端的に言えば、非はザイコフの方にあった。そして彼自身、そのことを承知していた。リータが勝手に彼との結婚を選んだと言いはしたが、それ以前に結婚の命令に従う覚悟を決めたのは、あくまでザイコフ自身だったのだ。少なくともその責任は、妻となった女性に対して彼が負うべきものだったし、愛せないまでも、せめて相応の関心は払ってやるべきだったろう。それをザイコフは放棄したのだから、二人の離婚で一方的に非があるように見做されたリータには、災難だったと言うしかない。
だが、彼女には特権階級の父親がついている。少しばかり不名誉にはなるだろうが、このことで彼女が咎められる事はない。とにかくこれで、リータは彼女に相応しい(と彼女が見なす)敬意と関心を払ってくれる男と再婚し、ザイコフの方は形ばかりの結婚から解放されて、しかもお咎めなしと相成ったのだ。祝杯をあげる気にもなろうというものだ。
そんなことを考えてぼんやりしながらも、ザイコフは視界の片隅で、つい今しがた店に入ってきたアメリカ人を捕らえていた。歳の頃は40代前半、ポロシャツにジーンズというラフな服装をした目立たない男だったが、その何気ない風情を装った身のこなしにはプロの神経がちらついていた。入ってきた瞬間にザイコフの方を見たのも気に入らなかった。
マクベリーは最初にカウンターに立ち寄ると、冷たいビールを注文し、一杯目はそこで独りで飲んだ。飲みながら、奥の方の片隅に座っているロシア人を目の端で観察した。彼が店に入った瞬間には、頬杖をついてスコッチのグラスを片手に、ただぼーっとしているように見えたのだが、今では同じ姿勢ながらも身体の隅々にまで神経を行き渡らせて、やはりこちらを観察しているようだった。なるほど、間違いなくプロだ。マクベリーはそのことにまず満足し、次いでどうアプローチしようかと思案しながら、二杯目のビールを注文した。その時、彼から少し離れたところで同じくカウンターに寄り掛かってしゃべっていた3人連れが、誰かの冗談に一斉に笑い声をあげ、そのまま大声でふざけ合いを始めた。ちょうどいい潮時だった。その喧騒から逃げ出すようにカウンターを離れると、マクベリーはビールのグラスを手に奥へと進み、そこにいたロシア人に英語で声をかけた。
「フランス人ってのは、ああやって前触れもなく騒ぎ出すから参るよな」
「いきなり馴れ馴れしく話しかけてくるアメリカ人も、いい勝負だ」
ザイコフは冷ややかにそう言ったが、マクベリーは嬉しそうに、ますます気軽な調子で話しかけた。
「こいつは一本とられた。あんたユーモアのセンスがあるねぇ。ここに座っていいかな。あんたと話すのは、なかなか面白そうだ」
「座りたいなら好きにするがいいさ。私はもう出ていくから」
「まあ待てよ、アレクサンドル・ザイコフ中尉」
席を立ちかけたザイコフは、名前と階級名を呼ばれて動きを止めた。
「そうつれなくすることはないだろう。俺はあんたと話がしたくて、わざわざここへ来たんだぜ」
「…ふうん。私は今までのところ、そんなに名前を売った覚えはないんだがな」
再び腰を落ち着けながら、探りを入れるようにザイコフは言った。マクベリーもさっさと向かいの席に腰をおろすと、ちょっとニヤリとして言った。
「そうだな。余所ではどうか知らないが、俺はあんたをよく知ってるよ。ある人に、是非あんたと話してみろと言われたんで、まずは少し調べさせてもらった」
「誰だ、ある人って…」
ザイコフは怪訝な顔をしたが、マクベリーは構わず続けた。
「それで、まあ、色々と興味深かったんで、やはり直接あんたに会って話してみようと思ってな」
どうも嫌な予感がするな、とザイコフは思った。
「私の何が、そんなにあんたの興味をひいたのかな。経歴が珍しいからか?」
「それもある。だが、もっと興味深いのは、そんな変わった経歴になった、そもそもの理由の方さ」
そう言ってマクベリーは意味ありげに笑った。やはり来たか、とザイコフは思った。嫌な予感ほど的中するものなのだ。確かに経歴を詳細に調べれば、その理由もおのずと見当がつくだろう。だが何故CIAが、そこまで深く自分のことを調べたのだろう。彼らが選りにもよって、自分のごとき下級将校に着目したのが解せなかった。ある人とは、いったい誰だ?
目まぐるしく考えを巡らせはじめたザイコフの様子を見ながら、マクベリーは話し始めた。
「モスクワ大学の法科を首席で卒業した上、第一総局の訓練と同時進行できっちり外交官教育まで受けて、出だしはまるっきり超エリートだ。それなのにあんたの経歴は、わずか6ヶ月で狂い始めてる。今じゃKGB議長にまでなったアンドロポフの知遇を得て、さらにエリートの経歴を重ねるはずだったブダペストで、いったい何があったのかな?」