報復
アメリカ人は訊ねるような調子で言ったが、ザイコフは答えなかった。どうせ知っているのだ。答える必要はないし、答えたくもない。ザイコフが黙っているので、マクベリーは先を続けた。
「あんたがブダペストに着任した4ヶ月後、ひとりのハンガリー人女性がソヴィエトの外交機密に関する資料を西側に持ち出そうとする事件が起きた。あんたはその女性の逮捕を命じられ、きちんとそれを遂行したにも関わらず、その後なぜか事件への関与を疑われて、駐在半年にも満たないうちに、なんと北京に送り込まれてる。あんたの専門からすると、まるで見当はずれの人事だよな。どうしてそんな事になったのか。
…聞くところによると、問題のハンガリー人女性を、あんた上司と取り合ってたんだってな」
「誰がそんな事を言った?」
ザイコフは鋭く訊き返した。CIAが調べて分かる話ではなかった。そんな醜聞の記録はKGBにさえ残っていない。だがマクベリーは何でもないという顔で答えた。
「その上司さ。ブダペストであんたをはめた男だ」
ザイコフは思い出した。そういえばボロディンは、パリで西側の女に引っ掛かったのだった。
「なるほど。ボロディンを引っ掛けたのは、あんたらか」
「まあな。ある意味じゃ、あんたには感謝してもらってもいいと思うぜ。それがきっかけで、あんたはようやく本国に戻れたんだろ?」
「あんな男を引っ掛けて、何か実のある話が聞けたのか?」
「実のある話なんて、ほとんどなかったな。言っちゃなんだが、あんなのが上司だったんじゃ、あんたも苦労したろう。女癖が悪い上に虚栄心の塊だ。うちが送り込んだ女に、あることないことしゃべり倒してくれたよ。あんたに巧く濡れ衣を着せたことさえ自慢話のタネだ」
「あの男ならそうだろうさ。だけど奴は、そのハンガリーの事件で持ち出されかけた資料が何だったかはしゃべらなかったのか?」
「しゃべったよ。でも、もとの資料が残ってないんじゃ証拠にならないし、もはやネタが古すぎて、せいぜいSISに貸しを作った程度だな。しかしまあ、それはともかく、今はあんたの話だったな」
別の方向へ逸れかけた話を、マクベリーは元に引き戻した。ザイコフは内心で舌打ちした。
「ボロディンはああいう男だから、そのハンガリー女性も単なる慰みものとして扱ってたんだろうが、あんたの方は本気で惚れてたんだろ? でなきゃ、あんたほど頭のいい男が立場もわきまえずに楯突いて、ボロディン程度の男にはめられるワケがない。そして、そこまで惚れてた女を、結局あんたは自分の手でモスクワに引き渡した。女がどういう目に遭うかも承知の上でな」
ロシア人の顔が怒りに歪んだ。それを見て、マクベリーは頷きながら言葉を継いだ。
「そんな役目を押し付けられ、揚げ句に疑われて、あんたがどんな思いをしたか察して余りあるよ」
「…ふざけるな!」
ザイコフは吐き捨てるように言って顔をそむけた。
「あんたにいったい何が分かる」
それでもアメリカ人は、なおもたたみかけてきた。
「その後、専門外の中国に5年も閉じこめられて、母親の葬儀にさえ帰国を許されず」
「もういい、やめろ」
「やっと呼び戻されたと思ったら、身の証を立てるために好きでもない女と結婚させられ…」
「黙れ!!」
言いながらザイコフは、思わず相手の襟首を掴みそうになったが、場所柄を考えて思い止まった。いつの間にか、そんな分別が身についてしまった。これが10年前だったら、間違いなくこの場で殴り倒していただろう。アメリカ人の方は、まるで平然と座っている。ザイコフが手を出さないと承知しているかのようで、ますます腹立たしかった。
出しかけた手をどうにかテーブルの上に落ち着かせたものの、その手を関節が白くなるほど握りしめ、怒りに燃える目で相手を睨みながらザイコフは言った。
「あんたはいったい、何しに来たんだ。用があるならさっさと言え。いちいち古い話をあげつらって、私をいたぶるのはやめてもらおう」
「じゃ、率直に言おう。CIAに協力しないか? あんたのその怒りは、本来もっと別のところに向けられるべきじゃないのかな? そんな思いをさせられて、あんたはいつまでソヴィエトやKGBのために働くつもりだ? いったい何のために?」
「…ゴールキンだな?」
マクベリーの言った《ある人》に、ザイコフはついに思い当たった。
「私にそういう話をしろと言ったのは、イワン・ゴールキンだろう」
67年3月に亡命したその男は、ザイコフにとっては旧知だった。北京に在勤していた最後の2年間、彼は直属の上司だった。現地駐在官オフィスの副長として、ゴールキンはすべての部下のファイルに目を通し、ザイコフの経歴と彼がそこに放り込まれた事情を知って同情的だった。極東が専門ではないという理由でほとんど雑用ばかり押し付けられていたザイコフに、直属の上司の権限で情報分析をさせて、その能力を認めてくれたのはゴールキンだ。そして、モスクワ大学を首席で出た男の頭脳をあたら雑用などに使うなとボスに談判してくれ、それ以後はザイコフもまともな仕事ができるようになった。
そうした意味で、ゴールキンには借りがあった。けれど彼が、自分と一緒に国境を越える気はないかと内密に打診してきた時は、さすがに戸惑った。彼の忠告に耳を貸そうとしないモスクワに、ゴールキンが幻滅しているのは知っていたが、まさか本気とは思えず、逆にそういう誘いかけで試されているのではという疑惑も心に浮かび、結局ザイコフはきっぱり断ったのだった。それだけに、彼が本当に亡命した時はショックを受けた。
「ゴールキンはあんたの能力を買っているらしいな。あんたがこちら側に来て、彼をサポートしてくれることを望んでいるよ」
「彼には、すでに一度断った」
「それは聞いてる。だけど、その時あんたは冗談だと思ってたんだろ? あるいはテストだと思って警戒したのかな。いずれにせよ、本音では対応しなかった」
「何故そんなことが分かる」
「違ったのか? それならそれでもいい。改めて考えてくれ」
マクベリーは動じなかった。
「あんたには、国やKGBに報復したい理由があるはずだ。ならばこれをチャンスと思って、我々に協力して欲しい。当面は今の場所に留まって働いてもらうことになるが、いずれあんたがこちら側に来る時は、CIAが全面的にバックアップする」
「断ったら?」
「別にどうもしないさ。ただ、あんたにはもう二度と境界線を越えるチャンスが巡って来なくなるだけだ。そのつもりで、よく考えてくれ。結論を出すには3日で充分かな?」
「一生を左右する決断に、何日かかりますと答えられる人間がいるのか?」
「それもそうだな。だったら一方的に言うが、3日で決めてもらう。充分でも不充分でも、それが期限だ。もし我々に協力する決心がついたら、3日後の午後4時に、独りでこのカフェにきて欲しい」
マクベリーはそう言って、小さな紙片を渡した。ザイコフは一瞥してアドレスを覚えると、その紙片をライターの火にかざして燃やし、灰皿に捨てた。