黄金の秋 - Final Episode 1 -
サーシャは目でニコライ・ペトロヴィチを促すと、ストレッチャーの前に進み出た。上にかぶせられた白いシーツを、イワンがそっと持ち上げる。するとそこに、静かに目を閉じたミーシャの顔が現れた。
サーシャは何も言わず、じっと親友の顔に見入った。しばらくの間をおいてニコライ・ペトロヴィチは黙礼し、静かにストレッチャーから離れていったが、サーシャは身じろぎもしなかった。
無念そうな顔はしていない。苦痛に耐えている風でもない。ただ静かに、ミーシャは目を閉じていた。まるで眠っているみたいだな、とサーシャは思った。ひと言「おい起きろ!」と声をかければ、すぐにも目を開けて飛び起きるような気がした。もちろん、もはや彼が起き上がることはないと、頭では承知していたけれど。
ふと気がつくと、室内に残っているのは自分とミーシャだけだった。おそらくジーナかペトロヴィチが気を利かせて、皆を外へ連れ出してくれたのだろう。先ほどイワンが座っていた椅子をストレッチャーのそばに引き寄せると、サーシャは静かに腰を下ろした。
君が交通事故だって?
物言わぬ友に、声に出さずに話しかける。
飲酒運転の車に突っ込まれただって? 銃弾だの手りゅう弾だのバズーカ砲だの……そんな物騒きわまりない物の下を、幾度もかいくぐって生き延びてきた君が?
サーシャは思わず、くすっと笑ってしまった。
まったく君には呆れるね。よりにもよって、こんなに穏やかな日曜日の午後に、そんなつまらないモノをよけ損ねなくたって良さそうなもんだ。
だけどお前、向こうは妊婦だったんだぞ? と、ミーシャなら言うだろう。
わしらがどれだけがんばって生き延びたところで、せいぜいあと10年だ。できることだって、たかが知れてる。だが、これから生まれてくる子供は違うんだ。そうだろう?
そうだな。サーシャは同意した。君の選択は正しかったと思う。だから私は、そのことで異議を唱えるつもりはないんだ。……ただねえ、ミーシャ。
サーシャは小さくひとつ、ため息をついた。
ただ、こんな不意打ちを食らわせて、この私に挨拶する暇も与えてくれないとは、ちょっとひどいんじゃないかね? たった30分が待っていられないなんて、まったくせっかちな男だよ、君は…。
椅子の背にもたれて、ゆっくりと目を閉じ、また開く。それからもう一度、生涯最良の友の顔を眺めやると、サーシャは立ち上がった。
まあいいさ。どうせそう遠くない将来に、また会うことになるだろう。白いシーツを元通りにかけ直しながらサーシャは言った。
「Пока, Миша, до свидания(じゃあな、ミーシャ、また会おう)」
「大丈夫かね? あまり気を落としてくれるなよ」
霊安室を出たサーシャの肩を、ニコライ・ペトロヴィチがそう言って軽く叩いた。サーシャは微笑し、静かな声でこう答えた。
「正直に言うとね、大してショックを受けてもいないのです。自分でも驚くほど冷静でね」
ペトロヴィチはしばらく無言でサーシャの顔を見つめていたが、やがて何度か頷くと現実的な声に戻って言った。
「ところで君、これからどうするね? ムィチシに戻るなら、また送っていくよ」
「ありがとう。だが、私はもう少しジーナたちについていてやりたい」
「うむ、そうだね。彼女たちのためにも、その方がよかろう」
そのジーナは、廊下の少し離れたところで、サーシャの見知らぬ青年と立ち話をしている。アンナとイワンの姿は見当たらなかった。
「ミーシャに助けられた妊婦の夫だそうだ」
ジーナと話している青年を目で示しながら、ペトロヴィチが言った。
「イワン君とアンナ君は、遺体の引き取りの手続きがあるとかで、呼ばれて行ったよ。挨拶をしてからと思ったが、今は彼らも色々と忙しかろうから、私はこのまま失礼するよ。君の方からよろしく伝えておいてくれたまえ」
それじゃ、と、ペトロヴィチは軽く片手をあげた。サーシャはゆっくりと会釈してそれに応えた。
「サーシャ!」
ニコライ・ペトロヴィチの姿が階段の方へ消えてから間もなく、ジーナが先ほどの青年を伴って、こちらへ近づいてきた。ジーナの頬は涙に濡れていたが、顔は笑っている。心から嬉しそうな顔をして…。
「あら、ニコライ・ペトロヴィチは帰ってしまったの?」
「挨拶もせずに申し訳ないが、君たちも忙しそうだからと言って、今しがたね」
「まあ、私の方こそ失礼してしまったわ。でもね、サーシャ。こんな時だけど、今こちらの方から嬉しいニュースを伺っていたのよ」
ジーナが隣りにいる青年を手で示すと、青年はサーシャに向かっておずおずと頭を下げた。ひどくいたたまれない様子である。
「ミーシャと一緒に事故に遭った妊婦の、ご亭主だそうだね?」
いつにも増して穏やかな口調で、サーシャは青年に話しかけた。彼の妻もまた、突然の事故に遭遇した被害者なのだ。ジーナや自分に引け目を感じる必要などないのだと教えてやりたかった。けれども青年は神妙な顔つきのまま、何と言ってよいか分からぬというように黙って頷いただけだった。まあ、人の感情としては無理からぬことではある。サーシャはジーナの方に目を戻し、話の続きを促した。
「それで、嬉しいニュースというのは?」
「ええ、実はその妊婦さん、車にはぶつからずに済んだのだけれど、ミーシャが押しのけた勢いで転んでしまったそうなのよ。それで少し心配していたんだけれど、念のために検査を受けたらね、無事だったんですって! あとひと月もすれば、元気な赤ちゃんが生まれますって!」
ジーナはまた涙ぐみながら、それでも顔をくしゃくしゃにして笑った。
「良かったわねえ……。本当に良かったわ」
「そうか…。それは何よりの知らせだ」
サーシャも心からそう言って微笑んだ。
「でも、ジナイーダ・パヴロヴナ……」
青年が困惑したように口をはさんだ。
「こちらでこんな事になっている時に…、本当にお邪魔して良かったんでしょうか?」
「何を言ってるの。良かったに決まってるじゃありませんか」
ジーナは青年に向かってにっこりと笑いかけた。
「でも、妻を助けて下さったために、こうなってしまって…。何と申し上げたらいいのか…」
「そんな気遣いは無用だよ」
サーシャは静かに言った。
「ねえ君。ミーシャのしたことが無駄にならなかったなら、それは我々にとっても嬉しいことだ。それに、誰よりも彼自身が、お腹の子の無事を聞いて喜んでいるに違いない」
「その通りよ」
ジーナがそれを引き取って言う。
「だから、そんな顔をしないでちょうだい。わざわざ知らせていただいて、本当に感謝しているのよ。どうか奥さんに、お大事にと伝えてね。元気な赤ちゃんが生まれることを、私たちも願っていますよ」
「ありがとうございます、そんな風に言っていただけるなんて……。とにかく、近いうちに改めて、妻も連れてご挨拶に伺います」
「あら、だめよ。大事な身体なんだから、そんな無理させちゃいけないわ」
「いいえ、ナターシャも…あ、妻の名ですが、彼女もお礼を言いたがっていますし…」
青年はそこで、ふと思いついたように顔をあげた。
「…そうだ。無事に生まれたら、赤ん坊の顔も見てやってもらえませんか?」
作品名:黄金の秋 - Final Episode 1 - 作家名:Angie