排他的ユーフォリア
「すぐに失くせる類のものでもないだろう。実に厄介な感情だな、あれは……」
うっそりと空へ視線を流しているクラヴィスの横顔は、もしかするといまは遠い誰かを偲んでいるのか、はたまた彼の持つ気質そのものが滲み出ているのか、とても優しい空気を纏っていた。
その柔らかい雰囲気にそっと後押しされているような気持ちになり、ルヴァは恐る恐る切り出した。
「あの……クラヴィス」
「どうした」
「とっても言いにくいんですが、どうか聞いて下さい……あのときは、本当にすみませんでした。自分の未熟さが恥ずかしいです」
真っ直ぐにクラヴィスの目を見て言葉を紡ぐルヴァを、クラヴィスもまた真正面から受け止め、ほんの僅かに口の端を上げた。
「もう過ぎたことだ……それに私は後悔してはいない」
「……」
ある日ぶつりと行き場を失った想いを抱え生きていくのがこれ程の痛みを伴うということを経験したいまとなっては、当時の自分の発言がいかに軽はずみだったのかと余計に思い知るのだ。
世の中には物語のように綺麗には終われないこともあると知った。かつて生きることに疲れたと時折言っていた闇の守護聖の嘆きを理解できる程度には、あの人を愛せたのだと思う。
沈黙の中でそんな考えに行きついたとき、流星がひとつふたつと流れ去った。
ちょうどそれを目撃したルヴァが少しはしゃいで「ああほら、いま流れていきましたねえ」と告げると、クラヴィスが喉の奥でくつくつと笑い、それから労わりのこもった声でゆっくりと話し出す。
「私の場合はああなる宿命だったのだと、今は思える。……が、おまえの場合は、どうもまだ縁があるようだが?」
「ええっ……? ど、どういうことですか」
思いもよらない発言にルヴァは驚き、声に狼狽の色を滲ませた。
「選択を誤ったわけではない、ということだ────おまえの闇を照らす一縷の光が、私の水晶球には映っていた……火龍族ほど正確ではないが、あれも気まぐれに色々と映し出すからな」
いまだ発言の意味に得心のいかない顔をしたルヴァをよそに、クラヴィスがのそりと立ち上がる。
「そろそろ館へ戻るとしよう……ではな、ルヴァ」
クラヴィスは横目でルヴァに一瞥をくれて影の如く静かに歩き去っていく。
もしかすると今宵の遭遇そのものが単なる偶然ではなく、彼にだけ見える道の上にあるのではないか────ルヴァの中にそんな疑問を残して。
一方その頃、ルヴァの館を出たオリヴィエはそのまま帰宅せず、炎の守護聖の館にいた。
「はぁい、オスカー。お先に一杯貰っちゃったよーん」
部屋に現れたオスカーに笑顔でひらひらと手を振ると、呆れたような声が降って来た。
「いつものことながら人んちの酒を勝手に飲むなよ、極楽鳥め。……で、そっちの首尾はどうだ?」
オスカーの言葉を聞くなりオリヴィエからそれまでの陽気な表情が消え、ショットグラスを持つ手に力がこもった。
「話してきたよ……あれは相当参ってるね。可哀想でもう見てらんないよ」
やるせなさと共に口に含んだ酒はオリヴィエの喉をじりじりと焦がしながら胃へと流れ落ちていく。
オスカーも同じくショットグラスに酒を注ぎ、ぐびりと豪快にあおっている。当人としてはごく普通に飲んでいる様子なのだが、傍から見れば一口に消費される酒量が多い。
「やはりそうか……ジュリアス様もああ見えて心配していたからな、事がうまく運べばいいんだが」
「大体純粋すぎるんだよ、いい歳してさぁ……これだから遅咲きの恋なんてロクなもんじゃないね。これがあんただったらなーんの心配もいらないのに!」
「まあな。俺が本気になったら世界が滅びようがこの手に奪い取るまでだ。そもそも余程の脈なしでもない限りは逃がさないぜ」
一切隠すことなく自慢げな顔つきでそう豪語するオスカーに、つまらなさそうに小さく舌打ちをしてオリヴィエは再び酒をあおる。
「はーいはい、言ってなさい。ったく、あんたの爪の垢でも飲ませてやろうかな。足して二で割りゃ普通の人間が二人できるんじゃないの?」
そんなオリヴィエの冗談をふんと鼻で笑ったオスカーが、からかい混じりの調子で口を開いた。
「綺麗に混ざればいいがな」
オリヴィエの美しく整った眉の片側が吊り上がった。
「混ぜるな危険って? あーやだやだ、失敗してもっと面倒くさいのができたら扱い切れないわ!」
嫌そうにうへえと肩を竦め、空のグラスをそっとテーブルへ置いた。
「それじゃ、私は帰るよ。お酒ご馳走様」
ストールを巻き直しかつかつと軽快な足取りで帰っていく後ろ姿へ、オスカーの声が投げられる。
「ああ、気をつけて帰れよ」
翌朝、ルヴァは真っ先に光の守護聖の執務室を訪れていた。
「失礼しますよ、ジュリアス……あなたに報告があります」
明るい執務室の中でも一際光を弾いて波打つ金の髪をそのままに、ジュリアスは視線を上げルヴァを見た。
「ゼフェルのことだろう?」
待っていたと言いたげな口ぶりに闇の守護聖の読みが当たっていたと分かり、背筋を伸ばし呼吸を整えてから返事をする。
「ええ、そうです」
ジュリアスはルヴァの返事とほぼ同時に引き出しから透明の袋に入れられた薬包を取り出し、机の上に置いた。
「ゼフェルが所持していたのだが、自ら使用したと言う割に幾つか腑に落ちない点が散見した。これが誰の持ち物か、そなたは知っているか」
瑠璃の瞳に宿った獲物を射るような強く鋭い光を前にして、ルヴァは穏やかな表情で答えた。
「その薬を使っていたのは……私なんです」
長い息を吐いて目を閉じたジュリアスが、重い口を開いた。
「……大方、そのような話だろうと思っていた」
ルヴァもまた、遂に言ってしまったことへの僅かな動揺を落ち着かせようと音のない息を吐く。
「精製から加工、使用に至るまで、全て私が一人で行いました。詳細が必要であれば全て包み隠さずお話します。ゼフェルは私をかばっていただけで、この件においては全くの無関係です」
執務机に両肘をついて指を組み、微動だにせず目の前のルヴァを見つめた。
「そなたの話はわかった。だが幾ら合法とはいえこれは重大な問題だ、女王陛下には通常通りご報告申し上げる。それで良いな、ルヴァ」
「……ええ」
苦々しく返事をしたが、できることならあのひとにだけは知られたくなかった、と内心歯噛みする。しかしここで自分が名乗り出なければ、ゼフェルが無実の罪を被ってしまうのだ。
僅かに顔をしかめたルヴァを視界に映し、やや伏し目がちにジュリアスの言葉は続いた。
「どのような処分が下されるかは女王陛下のご判断を待つように。そなたはそれまで自宅待機だ」
ルヴァが退出した後、ジュリアスはすぐに報告書をまとめて女王補佐官ロザリアのもとへ向かう。
その報告書に目を通したロザリアが、綺麗な眉を下げて困惑している。
「これは……。ジュリアス、使用されたものが合法なのでしたら、わざわざ波風を立てることはないでしょう? それにルヴァですもの、みだりに乱用する心配なんてありませんわ。研究院は規則通りに通告義務を果たしただけですし」
「だが規則は規則だ……と言いたいところなのだが」
懐から厚みのある封筒を取り出し、ロザリアの手に載せる。