陽は国境へと傾き…
そう、先に距離感を見失い始めたのは、ユリアの方だった。
きっかけは、自分の方からつい、彼に要らぬ口をきいてしまったことだった。
前任者のときからの習慣で、ユリアは彼を「ガスパディーン」と呼んでいたが、ロシア人にとってこの呼び方は、相当に冷たくよそよそしいものだということは承知していた。これに対してザイコフは、まったく同様のよそよそしさで、彼女を「ガスパディア・ルカーチ」と呼ぶようになった。ユリアはそれが嫌で嫌で仕方がなかった。彼女にとって「ルカーチ」というのは母の再婚相手の姓にすぎず、自分がその名で呼ばれる謂れのない姓だった。幼い自分を虐めた男の姓であり、できることなら縁を切りたい姓だった。むろん、ザイコフがそんな事情を知るはずはなく、単にユリアのよそよそしさに相応の呼び方を選んでいるだけなのは分かっていたが、それでも…というより、彼が自分を人並みに扱ってくれるからこそ、我慢できなかったのだと思う。それで、たまたま教授が席を空けている時に彼が訪ねてきた日、名前で呼び捨ててくれるようにと申し出たのだ。
ユリアは、ひとこと伝えるだけのつもりで、いつも通りの事務的な口調で言ったのだが、ザイコフの方は面白い話でも聞いたかのような顔になり、陽気らしい地をのぞかせて交換条件を出してきた。
「いいよ。ではそうしよう。その代わりと言ってはなんだが、君も堅苦しい『ガスパディーン』というのをやめる気はないか?」
彼にとっては、それは職務に関わりのない無駄話であり、それだけに身構えるところがなかったのだろう。ひとことで済むと思った話は、このザイコフの返事によって会話へと発展し、思わぬ方向に転がった。ユリアは予想外の展開に対応しきれなくなり、ついに無表情の仮面がはがれ落ちてしまった。ザイコフも相当に驚いたようだったが、ユリアだって焦ったのだ。
それ以来なんとなく、彼に対して無表情を保つのが難しくなってしまった。
ところでこの出来事は、ザイコフの方にも多少の変化をもたらしたようだった。
それから何週間か後のことだ。深夜になって大学を出たユリアは、ヴァムハーツ通りでザイコフに声をかけられた。一瞬、教授の執務室で極秘書類を漁っていたのを見られていたのかと、身のすくむ思いだった。けれど、ザイコフが通りかかったのは本当に偶然だったらしい。ユリアが用意していた残業の口実を、彼が疑った様子はなかった。それどころか、夜道を歩く彼女の身を案じてさえくれた。そして、ついにはアパートまでの暗い道のりを、わざわざ一緒に歩いてくれたのだった。
それが彼の、単なる社交上の礼儀だったのかどうか。人付き合いの経験のないユリアに確信はなかったが、たぶん違っていたと思う。そのとき夜道を歩きながら、彼はハッキリ口に出して言ったのだ。君は人形じゃない、と。
「生身の女性は、こんな夜道を一人歩きしちゃいけない。周りはともかく、君自身が自覚すべきだ」
諭すようにそう言われた時、ユリアは危うく涙をこぼしそうになった。そんな言葉を、ずっと誰かに言って欲しかったような気がする。こんな風に誰かが思いやってくれるのを、ずっと待っていたような気がする。涙はどうにか堪えたものの、心が震えてしまうのを抑えることはできなかった。
おそらくそのせいだったのだろう。アパートに着いて、パウラッチェンの中庭で引き返そうとしたザイコフを、ユリアは思わず引き止めていた。もうしばらく彼の声を聞いていたかった。その時には、彼がチェキストだという事実が、頭の中からすっかり抜け落ちてしまっていた。ブダペストで暮らしはじめて以来、自室に人を招き入れたのは初めてのことだった。
マトリョーシカについての話をしたのも、その夜のことだ。
飾り棚の上にぽつんと残してあったそれは、ザイコフの前任者がくれた5個組のマトリョーシカの中にあった、いちばん小さい人形だった。いつかだったか、大学へ教授を訪ねてきた前任者・イェレンコが、前室のユリアの前で思い出したように立ち止まり、「あんたのお仲間だ」と言ってひょいと寄越したのだ。なぜ彼がその時そんなものを持っていたのか知らないが、ともかくユリアにくれたというより、いらないから置いていったという方が正しいだろう。ユリアとしても、自分なりに機能的に整頓したデスクにそんなものがあっては邪魔なので、仕方なく持ち帰ることにした。飾っておくつもりはなく、すぐに捨てようと思ったのだが、気まぐれに中身をひとつずつ取り出してみたとき、最後に出てきた豆粒のような人形だけが、何か正体あるもののように見え、残しておく気になったのだった。
正直なところ、ユリア自身もその人形の存在をほとんど忘れていたのだが、ザイコフがそれだけを残した理由を訊ねるので、そんな話をしたのだった。
「華やかで見栄えのいい人形は、実体のない虚像です。中を開けるとまた別の顔をした人形が現れる。その繰り返しです。虚像の上に虚像を重ねて、巧妙に正体を隠しているんです。でも、これだけは本物です。これ以上は何も隠していない。小さくてみすぼらしいけれど、ちゃんと中身が詰まっている。すべての嘘があばかれた後、最後に残る真実です」
そう言ったとき、ユリアの頭に浮かんでいたのは、密かにモスクワのために働く教授や、もっともらしい名目の影で自分を慰みものにしている参事官の顔だったが、話し終えてふと目を上げたとき、ザイコフが奇妙な顔つきでこちらを見つめているのに気がついた。ユリアは唐突に思いだした。そういえばこの人も、肩書の裏に正体を隠しているのだった…と。
ユリアは口をつぐんだ。ザイコフの態度が少し冷ややかになったような気がした。どうしてこんな話をしたのだろう。少しこの人に気を許し過ぎているかも知れない。そう思って反省もしたが、いったん引き寄せられてしまった心は、引き戻そうとしても言うことを聞かなかった。
一方、このときの彼女の話は、ザイコフにある種の疑惑を投げかけていた。
表面上ユリアは、教授がモスクワのために働いていることも、彼の許に通ってくる大使館員がKGBに属していることも、知らないことになっていたのだ。少なくとも教授やザイコフはそう思っていた。その彼女があんな話をしたのだから、彼がユリアの素性に疑問を持ったのも、当然といえば当然ではあった。
その翌日からザイコフは、当局を使って内密に彼女を監視し始めた。それでいて、ユリアと大学で顔をあわせる時には普段と変わらぬ態度を崩さず、疑っている素振りを見せなかった。だから彼女は、自分の後をつけているらしい当局者の存在に気づきはしても、それをザイコフと結びつけて考えようとはしなかったのだ。そうして彼はユリアの知らぬ間に、彼女が深夜にボロディン参事官と密会している事実を把握してしまった。そこで彼女が何をしていたのかも、彼にはおおよその見当がついたようだった。
ユリアがそのことを知ったのは、母の死を知ったのと同じ日だった。