陽は国境へと傾き…
その日、主治医と会うはずだった場所にあのならず者の養父がやってきて、ユリアが用意していた治療費を取り上げにかかった。そこへまるで偶然のようにザイコフが現れて、養父との間に割って入り、彼女をその背にかばってくれたのだった。その時にはそれが、どれほど嬉しく、また頼もしく思えたことか! けれど、それから1時間と経たぬうちにユリアは思い知らされたのだ。あの場にザイコフが現れたのは偶然などではなく、密かに彼女を監視していたからだということを。
ショックだった。すぅっと血の気がひいていくような感覚にとらわれた。それと同時に悲しみと、それを上回る怒りが込み上げてきた。気遣うように振る舞いながら、その実チェキストの目で自分を見ていたザイコフに対して。そして、そんな彼にこうまでも心惹かれてしまった自分自身に対して。いったいなんという日だろう、とユリアは思った。いっぺんに何もかもが襲いかかってきたようで、どこにも救いが見いだせず、崩れ落ちてしまいそうだった。
それなのに。
これほど傷つき打ち萎れているのに、この上まだザイコフは心ない言葉で責めるのだ。彼女がどんな思いであの参事官に身を任せていたか、考えてみてもくれないのだ。
君は人形じゃないと、言ったくせに…!!!
悔しくて悲しくて腹が立って、気がついたときには手が出ていた。それと同時に涙があふれ出してきた。今度はとても押しとどめられそうにない。むき出しの感情を、これ以上ザイコフに見られるのは耐え難かった。ユリアは急いで顔を背け、その場から逃げ出そうとした。けれど踵を返したとたん、ザイコフの手に肩をつかまれて引き戻された。必死でもがいても振りほどくことができず、とうとう涙がこぼれ落ちてしまった。そのときだった。
「悪かった」
そう言って詫びるザイコフの声が聞こえた。少しかすれた、なんだか泣き出しそうな声だった。許すものか、とユリアは思ったが、逃げ出すつもりの足は何故か、その場で動かなくなってしまった。そうして立っているうちに、身体は彼の両腕に引き寄せられ、すっぽりと包み込まれた。初めて彼に抱きしめられて、またもや心が揺れ始める。でも、二度とこんな風に傷つきたくなかった。 再び「悪かった」という声が聞こえたが、ユリアはひたすら身を固くして、彼の言葉と抱擁を拒んでいた。
「君の気持ちも考えずに、なじったりしてすまなかった」
言いながら、ザイコフはさらに強く彼女の身体を抱きしめた。その声には、真剣な響きがあった。本心から彼女に許しを請うているのが分かる。離して欲しい。でも離さないで欲しい。厭わしい。でも嬉しい。もう信じない。でもこの人が好き… ユリアの中で、互いに矛盾する感情が入り乱れて交錯していた。振り子のように揺れ動く心に、身体までが揺さぶられるようで、もう立っていることさえ覚束ない。
ユリアは支えを求めて手を伸ばし、結局そのままザイコフにしがみついた。そうやって素直に身を寄せてしまえば、彼の胸は広く暖かく、無条件に彼女を安心させた。溢れてくる涙は、もう抑えようがなかった。その胸にすがってユリアは泣いた。すっかり無防備になっていた。
ザイコフはもう何も言わなかった。彼女がおのずと泣き止むまで、黙って待つつもりのようだった。時折、そっと愛おしげに、彼の手がユリアの髪をなでていく。ユリアにはその手が、自分を護ってくれる手のような気がした。この人が好きだと、改めて思った。
しばらくそうしているうちに、ユリアは徐々に落ち着きを取り戻していった。あんなにも頭の中で秩序を失って入り乱れていた感情の叫びは、涙と一緒に身体の外へ出て行ったのか、今では遠ざかる雷鳴のように、どんどん小さく微かなものになっていくようだった。そして乱れた気持ちが収まっていくにつれ、今度はとてつもない気恥ずかしさが襲ってきた。自分のしたことが信じられなかった。あんなむき出しの感情を人にぶつけた上に、その当の相手にしがみついて、今もその腕の中にいるのだ。この状況に、どうすれば収拾がつくのか分からなかった。ユリアはすっかり狼狽し、涙は収まっても顔を上げることができなくなってしまった。
そんなユリアの耳元に、ザイコフの声が静かに訊ねた。
「…落ち着いた?」
ユリアは救われた思いでこくりと頷いた。ザイコフが腕を解いてくれたので、急いで身体を離した。羞恥に赤らんだ顔を見られないように、うつむいたままで。
「…帰ります」
「送っていくよ」
ザイコフはそう答えたが、すぐに動こうとはせず、少しためらうような間をおいて言葉を続けた。
「…でもその前に、この辺りで何か少し、暖かいものを食べていかないか? すっかり身体が冷えてしまったし、ちょうど夕食をとるにもいい時間だし」
その提案に、ユリアは驚いて思わず顔を上げてしまい、また慌ててうつむいた。
「あの…せっかくですが、私はあまり人の集まるところへは…」
「大丈夫だよ。少しぐらい人目をひいても、誰も君を傷つけたりはしない」
「……」
ユリアがうつむいたまま黙っていると、ザイコフは彼女の肩にそっと手を置いて身をかがめ、顔をのぞき込むようにして言った。
「大丈夫。私が一緒にいる。信じてくれ」
そうまで言われて少し気持ちが動いた。ユリアは上目遣いにザイコフを見あげ、それでもたっぷり10秒ほどためらってから、とうとう小さく頷いた。ザイコフがにっこりと微笑むのが見えた。
「じゃあ行こう。凍えてしまう前に」
確かに寒かった。ザイコフの腕の中にいる間は感じなかったが、身体を離したら急に寒くなった。彼の方は、ユリアを抱きしめて立っている間、ずっと寒かったのかも知れない、とユリアは思った。
二人は、そこからラーコーツィ通りの方角へ少し行ったところで、最初に目についた食堂に入った。労働者の集まる安食堂だったが、ザイコフは選り好みをして霧の中を長く歩き回りたくないと言い、ユリアに異議を唱える理由はなかった。店はブッフェ形式で、人々は厨房に広く開いた窓口で好きなものを注文し、受け取った皿を自分でテーブルに運ぶシステムだった。なかなか人気があるらしく、テーブルは8割がたふさがっている。ザイコフは、空いているテーブルの中でも特に目に付きにくい奥の壁際を選び、そこにユリアを座らせて自分が二人分の料理をとりに行った。