陽は国境へと傾き…
店に入ったとたん、ユリアは人々の好奇の目が自分の方に向けられたように感じたが、ザイコフがテーブルを離れていくと、その視線の半分以上が彼の後をついていった。それで、見られているのは自分だけではないと気がついた。そう思って見ると、確かにザイコフは目立っていた。まず第一に、彼以外にネクタイなど締めている者は店内にひとりもいなかった。また、具体的に何が違うか指摘することはできないが、その態度物腰はなんとなく優雅な感じがして、他の客たちとは明らかに雰囲気が違っている。外交官や政府官僚の集まる場所に大使館員として紛れ込む分には、たぶんそれが控えめで目立たない服装と立居振舞いなのだろうが、一般労働者のひしめく安食堂にあっては、彼の周りだけ空気の色が違うみたいに浮き上がって見える。その上あの長身では、人目を引かないはずがなかった。けれど当のザイコフは、そんな視線にまるで頓着せず、ごく当たり前という顔で他の客たちに交じって窓口に並び、二人分のグヤーシュとパンとコールスローを受け取って戻って来た。そうしてザイコフがユリアの向かい側に腰をおろした頃には、人々の好奇心も満たされたのか、こちらへ向けられる視線はずいぶん少なくなっていた。
それでもユリアは、別の理由で緊張していた。子供の頃、ルカーチ・ベーラの留守中に母と食卓についた記憶があるだけで、こんな風に人と差し向かいで食事をするなど生まれて初めてなのだ。ひとりで食べる時とは勝手が違う気がして、どうにも落ち着かなかった。
「少し気楽にしたまえよ」
よほどユリアの動きがぎこちなかったのだろう。ザイコフはそれを、彼女が人目を気にしているせいだと思ったらしく、少し可笑しそうに言った。
「こちらを見ている顔は、気にするほど多くないようだよ」
黙っていた方がいいのか、それとも何か話した方がいいのか、そうだとしても何を話せばいいのか分からずに困っていたユリアは、彼の方から口を開いてくれたことに少しホッとし、ゆっくりと首を横に振って答えた。
「私より、あなたを見ていた人が多かったようです」
「そう?」
ザイコフは、まるで気がつかなかったという顔で聞き返し、それから苦笑して付け加えた。
「それじゃ、私が君を殴ったと思われてしまったのかな」
言われてユリアは自分の左の頬に手をあてた。こめかみの辺りが少し熱を持っているようだ。そういえば先刻、養父と揉めていて殴られたのだった。すっかり忘れていた。
「…目立ちますか?」
「少しね。内出血してるようだ。まだ痛むかい?」
「忘れていたぐらいです」
「その程度なら良かった」
そう言って微笑むザイコフは、とうてい人を殴ったりするようには見えない。
「誰も、あなたが私を殴ったとは思いません」
ユリアが真面目な顔で断言すると、ザイコフは笑みを大きくした。
「そう願いたいね。でも、どうして?」
「そうは見えないからです。あなたは、人を殴ることなんてないのでしょう?」
「あるよ」
ザイコフは事もなげに笑ってそう答えたが、ユリアは少しショックを受けた。そして、それを顔に出してしまったらしい。彼はいったん笑みを消して彼女の顔をのぞき込み、それからまたごく穏やかな微笑を浮かべてこう続けた。
「私だって人を殴ることはあるよ。もちろん、それだけの理由があればだけどね。ただし、どんな理由があっても女性には手は上げないと決めている。今までそれを破ったことはないし、これからも守るよ」
ユリアはじっとザイコフの目を見つめていたが、ザイコフが「そういうことで許してもらえるかな?」と訊ねるので、黙ってこくりと頷いた。
するとザイコフはにっこりとし、それから唐突に話題を変えた。
「ところで、君さえ嫌でなかったら、近いうちに改めて食事に誘いたいな。今度はもう少しきちんとした店に、君を招待するよ」
途端にユリアは心臓が跳ね上がったような気がした。今度は返事ができなかった。急に頬が熱く感じられたのは、殴られた痕のせいではないようだった。ザイコフは微笑みを浮かべたままこちらを見つめ、答えを待っているようだったが、ユリアが黙ってうつむくと、無理に返事を促そうとはしなかった。それで結局、答えは返さずじまいになってしまった。
食堂を出ると、外は相変わらず冷たい霧だった。コートも髪の毛もじわりと湿り気を帯びてきて、せっかく身体にとりこんだ暖かさも、たちまち吸い取られていくようだった。
「また凍えそうだね。急いで帰ろう」
そう言ってザイコフは、ユリアの前に右肘を曲げて差し出した。ユリアがその意味を理解できずにいると、黙って彼女の左手をとって肘の内側に乗せ、その手を引くようにして歩き始めた。ユリアは始め、なるべく左腕を伸ばして身体が触れないようにしていたが、その体勢は不自然で歩きにくく、かといって彼の肘から手を引き抜く気にもなれず、その結果、いくらも歩かないうちに自然とザイコフに寄り添ってしまった。すると、体の左半分が少し暖かかくなった気がした。
アパートに帰り着くまでの20分ほどの間、二人ともほとんど口をきかなかった。ユリアはもともと自分から話を始めるようなタイプではないし、ザイコフの方も何かを考え込んでいる様子で、じっと押し黙ったままだった。ユリアには、その沈黙がなにか親密なもののように感じられた。左の手首が抱きしめられているようで、少し胸がときめいた。すぐ隣り、目の高さには、ザイコフの肩があった。その肩に寄り添って、ずっと歩いていたかった。アパートが見えてきた時には、もうすぐ彼が手を離して行ってしまうのかと思って、密かに唇を噛んだほどだった。
けれどパウラッチェンの中庭に入っても、ザイコフはユリアを離さなかった。何も言わずに階段を上り、部屋のドアの前に立つまで、手首は強く抱きしめられたままだった。彼は立ち寄るつもりなのだとユリアは思った。そしてそれは、彼女が望んでいたことでもあった。
ところが。
ようやく緩んだ肘の間から手首を抜いてドアに鍵を差し込もうとした時、ザイコフは急にユリアを制して言った。
「ドアを開ける前に。私はここで失礼する」
ユリアは驚いて彼を見上げ、それから慌てて言った。
「お寄りください。寒かったでしょう。お茶をお入れします」
「自信がないんだ」
ザイコフはちょっと悲し気に微笑み、静かに首を横に振った。
「この前みたいに行儀よく座っていられる自信がない。お茶だけ飲んで退散する自信が、私にはもうない。だから帰るよ。このドアが開く前に。君を傷つけるような真似をしてしまう前に」
ユリアはじっとザイコフを見つめた。もちろん、彼の言わんとする意味は分かった。そして、構わない、と思った。何よりも、彼に行かないで欲しかった。だからユリアは素早く鍵を回し、おやすみと言いかけたザイコフを遮るように、ドアを大きく開きながら言った。
「どうぞ、ガスパディーン」