陽は国境へと傾き…
それがユリアの返事だった。ザイコフはなんとも言えない表情を浮かべてユリアを見つめ、次いで自分の足元に目を落とした。ユリアはドアを開け放したまま、彼をその場に残して一人で中へ入った。ザイコフが自分に続いて入って来るだろうと確信していたわけではない。もしかしたら、そのままドアを閉めて行ってしまうかも知れない。それはもう賭けだった。これで彼が行ってしまうなら、引き止めるのは無理だと思った。ユリアはただ息を詰めて、結果を待った。
コートを脱ぎ、居間の床に膝をついてストーブに火を入れていると、背後で静かにドアの閉まる音がした。そして、ユリアが心底ホッとしたことに、ドアの内側で人の気配が動き、衣擦れの音が聞こえた。彼は帰らなかったようだ。ユリアは密かに安堵の吐息をもらした。振り返ってみると、ザイコフが居間の入り口に立ってじっとこちらを見つめている。その時になってユリアは、自分がかなり大胆な行動をとったことに気づいてドキリとし、それを見透かされまいと慌てて目をそらした。
「どうぞ、お座りになってください。いま、お茶を入れてきます」
言いながらユリアは、ザイコフの横をすり抜けてキッチンへ逃げ出そうとしたが、ザイコフの腕に行く手を遮られた。その腕は、そのまま流れるように彼女を抱き寄せ、そっと包み込んだ。ユリアは抗うことなくザイコフの腕の中におさまったが、彼の顔を見上げることはできず、目の前のネクタイを見るともなく見ていた。やがて左頬の腫れているあたりに、ザイコフの唇が触れるのが分かった。心臓の鼓動が激しくなって、指先までが脈打っているように感じられた。
「ユリア」
頭上から降ってきた声に、そっと顔を上げてみると、ザイコフの静かな青い目が、すぐ間近で彼女を見つめていた。
「私は参事官と同じにはなりたくない。君にどんな無理強いもしたくない。だから、君がもし嫌だと思ったら、すぐにそう言って欲しい。どうか我慢などしないでくれたまえ」
言いながらザイコフは、左手で彼女の右頬を包み込み、それからちょっと首を傾けるようにして、そっと…恐るおそる…くちづけをした。その唇はほんの一瞬、かすかにユリアの唇に触れただけで、すぐに離れていった。嫌ではなかったから、ユリアは何も言わずにじっとしていた。
しばらくして、再びザイコフの唇が近づいてきて、今度は2秒か3秒か、その弾力が感じられる程度に押し重なり、そしてまた離れていった。今度もユリアは何も言わず、ただ、ザイコフの顔をじっと見上げた。少しも嫌だと思わなかったから黙っていたのだが、ユリアを見つめる彼の目は、なにかとても不安そうだった。
嫌じゃない、と声に出して言った方がいいのだろうか。ユリアは一瞬そう思ったが、そんな言葉がふさわしいとは自分でも思えなかった。単に「嫌じゃない」という以上の、なにか息苦しいような、切ないような、それなのに何故か安心できるような、奇妙に心地よい今の恍惚とした感じは、とても言葉では表せそうにない。
だからユリアは言葉の代わりに、顔を上に向けて少し背伸びをし、今度はみずからザイコフの唇に静かに自分の唇を重ねてみた。
その、途端。
ザイコフの中で何かのタガが外れたようだった。改めてユリアの身体を引き寄せ、しっかりと強く抱きしめると、今度はもうためらうことなく貪るようなくちづけを繰り返した。ユリアは目を閉じて全身の力を抜いた。不安はなかった。彼のなすままに身を任せようと決めた。
ザイコフはユリアを、ようやく手に入れた宝物のように優しく丁寧に扱った。白い裸身に指をすべらせ、その形を確かめるように愛撫した。手首や手のひら、一本一本の指先にまで、大切そうにくちづけをした。形にならない彼の想いが、全身に降りそそぐのをユリアは感じた。これが愛情というものだろうか。暖かい雨のようだと思った。その雨は、冷たく乾いた心にゆっくりと柔らかく滲みわたり、蝋のように白い彼女の肌を薄紅色に染めていった。これほど大切にされたのは生まれて初めてだった。自分が素晴らしく価値あるものになった気がした。嬉しかった。幸福だとさえ思った。
それだけに、その後の葛藤と後悔も、大きく、激しく、苦しかった。
翌朝、まだ夜も明け切らぬうちにザイコフが静かに部屋を出て行くと、入れ替わりに後悔がすべり込んできた。ユリアはベッドを抜け出すとガウンを羽織り、居間の壁際に積み上げた本の陰から、隠しておいた薄いファイルを引き出した。
すでに資料は揃っていた。それを送る先も、何処からどんな名義で投函すれば検閲を免れるかも調べてあった。母が亡くなったからには、今日にも実行すればいい。もはや医師と連絡を取り合う必要も、治療費を工面する必要もなく、従って自分がブダペストに留まる必要もない。…それなのに今、こんなにも決意が揺らぎ始めている。
ユリアはファイルを持ったままソファに腰をおろし、膝を抱え込むようにしてうずくまった。そして自分の胸の内をさぐった。
正直なところ、この国を出たいという強い希望があるわけではない。たとえ首尾よく西側へ逃れられても、それだけで未来が明るくなるとは思っていなかった。自分のこの風貌はどこへ行こうと奇異の目で見られるだろうし、今のままの自分では結局、ひとり心を閉ざして生きていくことになるだろう。そのぐらい、自分でもよく分かっていた。この計画を立てたのはただ、実の父を奪った国と、自分に屈辱を与え続けた者たち…ルカーチ・ベーラやボロディン参事官、プレチュニク教授や、その他にも何名か…に、手ひどい反撃を加えてやりたかったからだ。けれどその憎悪の念さえ、昨夜の暖かい雨に溶かされたのか、今では何やら薄ぼんやりとした捉えどころのないものに変わってしまっていた。そして、それに代わるように、今ハッキリと形になり始めた思いがひとつ。
…あの人の近くにいたい。
そのザイコフは、憎むべき国の人・恐るべき機関に属する人だと、これまで何度となく自分に言い聞かせてきたが、彼に対するこの思いは、もはや打ち消すことも振り払うこともできなくなっていた。
ユリアはザイコフの穏やかな笑みと誠意のこもった青い目を脳裏に浮かべた。昨夜の暖かな抱擁と情熱的なくちづけの感触を肌に呼び戻した。これからもあの人のそばにいられるなら、今のままこの街で暮らしても、自分は変わることができそうな気がする。自分に屈辱を与えた者たちに仕返しなどしなくても、潤い、満たされるような気がする。そんな希望さえ心に浮かんできた。でも…
どこまでも現実的な思考が、幸せな空想に水を差す。
ザイコフはいつか確実に去っていく。ブダペストでの任期が終われば、本国へ戻るか別の国へ移るかして、行ってしまう。そしてその時ユリアには彼を引きとめる術はなく、追って行ける術もない。ザイコフが自分を一緒に連れ出してくれるなどとは夢にも期待できなかった。彼の想いがいい加減なものだとは思わないが、今の時点で先々のことまで考えているとは思えないし、たとえ考えていたとしても、彼の立場では外国人の女を娶ることなど許されるはずがない。
いつかはザイコフのいなくなった街でひとり生きていくことになると思うと、たまらなかった。