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陽は国境へと傾き…

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 抱え込んでいたファイルに改めて目を落としながら、ユリアは考える。あの人とは、いずれ別れる時が来る。その決別を今すぐ思い切るか、数年後まで引き延ばすか。自分に許された選択肢は、そのどちらかしかないのだ、と。
 それから数日の間、ユリアは激しく揺れ続けた。再びザイコフの腕の中で安らぐ自分を思い描いて恍惚とし、虚しく彼を見送る日のことを想像して戦慄した。計画を実行に移すことも放棄することもできなかった。別れは確実だと分かっていても、思い切ることができなかった。

 とうとう決心がついたのは、クリスマス明けの12月26日のことだった。
 その日、普段どおりの仕事の顔で教授を訪れたザイコフは、帰り際、ついとユリアのデスクに歩みよると、今晩一緒に食事をしようとささやいた。彼が姿を見せただけで高鳴っていたユリアの心臓は、それで爆発しそうになった。嬉しくて目も眩むほどだった。それなのに次の瞬間、ユリアは咄嗟に、ほとんど反射的に、その申し出を断っていた。その時には、自分でも理由が分からなかった。なにか本能的な抑制が働いたとしか言いようがなかった。
 後から理屈をつけるなら、たぶん怖くなったのだと思う。
 実際にザイコフが目の前に現れて話しかけてくれたときの至福感は、ひとりで彼の抱擁を思い返しながら浸っていた恍惚感とはケタ違いだった。この上、誘われるままに出かけていって肩でも抱かれようものなら、もう絶対に思い切ることなどできなくなるだろう。そうして何年かを過ごした挙句に、彼が去っていく日が来た時の絶望の深さはどれほどのものか、想像もつかない恐ろしさだった。
 これ以上あの人に近づいてはいけない、とユリアは思った。これ以上あの人を好きになってはいけない。確実にやってくる別離なら、いま思い切らなければならない。ひとり置き去りにされる前に、この街を出て行かなければ……!
 その夜、そう思い定めたユリアは、それ以上考えるのをやめて行動に移った。準備の整った資料のファイルを封筒に入れ、厳重に封をして、かねてよりの計画通りイギリス公使館に宛てて発送した。

 充分に考慮し、周到に準備を整えたつもりの彼女の計画には、けれどいかにも素人らしい根本的・致命的なミスがあった。イギリス公使館内のMI6要員は、ユリアに接触して彼女の希望を受け入れるふりを装いながら、ソ連大使館内のKGBに連絡をとって政治的な取引をした。何も知らないユリアは、やっとのことでザイコフへの想いを断ち切って出立の準備を整えたが、迎えの使者として彼女の許に現れたのは、皮肉にも当のザイコフだった。
 戸口に立った彼の姿を見たとたん、ユリアはすべてが終わったことを悟った。もっとも、その時の彼女の主な目的…ザイコフが去っていくより前に、自分がこの街を去るという目的…は、ある意味で達せられたことになる。西へ行く予定が、東へ行くことになっただけだった。ただ、自分の裏切りに傷つき、失望し、憤るザイコフを目の前に見るのは、ひどく辛かった。事ここに至っては仕方のないことだとも思ったが、あれほど身近に寄り添ってくれていた彼が、無理にでもユリアの言動を疑い、拒絶しようとするのは悲しかった。
 好きだった。その誠実な優しさには感謝してもいたし、心から信頼してもいた。でも、だからこそ、いずれ来る別れを怯えながら待つのは耐えられなかった。せめて、この正直な想いだけは信じて欲しかった。
 いよいよユリアを連行する段になって、ザイコフは腰を上げた。すると、彼の背に隠れていた小さな人形がユリアの目に飛び込んできた。その瞬間、いつかの夜のことが思い出された。この人は覚えているだろうか。あの晩、あの人形について話したことを…。隠し事も嘘も、何もかもが明らかになった今、この身に残る最後の真実として、ひとつだけ信じてもらえるだろうか。祈るような気持ちで人形を見つめながら、ユリアは小さな声でぽつりと言った。
「ガスパディーン。私、あなたの国が嫌いです。でも、あなたのことは好きでした」
 その思いを、ザイコフは理解してくれたようだった。彼はその小さな人形を引き取って、そっと自分のポケットに収めた。ユリアは我知らず笑みを浮かべた。彼のポケットに収まったのは、自分の心だと思った。これでもう思い残すことはない。あとは、顔さえ知らぬ実の父の後を追って、モスクワで生涯を終えるだけだと思った。
作品名:陽は国境へと傾き… 作家名:Angie