陽は国境へと傾き…
その10年の間に、故国の状況は変化していた。まず個人的なところでは、あのルカーチ・ベーラが故人になっていた。センテンドレの船着き場で荷揚げをしていたとき、クレーンのワイヤーが切れてコンテナが崩落する事故があり、それに巻き込まれて死亡したとのことだった。また、プレチュニク教授は経済大学を定年退官し、それと同時に政府のオブザーバーからも退いて、今はバラトン湖畔の温泉地で優雅な引退生活を送っているらしい。実際は、教授がKGBのヒモ付きであることに気づいた政府が、ソ連の影響力を排除するために、体よく彼を追い出したということのようだった。
この当時、ハンガリーはソ連による干渉をかわしつつ、独自路線を進んでいた。カーダール首相は、かつての動乱でソ連政府に後押しされてナジの後釜に座ったために、国民から裏切者よばわりされて不人気だった。だが彼は、名よりも実をとる徹底した現実主義者だったのだ。ソ連の支配下から抜け出そうとすれば、叩き潰され蹂躙される。そのことを嫌というほど思い知ったカーダールは、ソ連の支配下で一定の自由度を認めさせる方針をとった。ハンガリーがソ連圏から離脱することはないから心配無用、といった調子でソ連をなだめ、西側との間の「カーテン」にほんの少しだけ隙間を作り、西側経済の恩恵を取り込んだ。
また西側からの観光客の誘致も巧妙だった。他の東欧諸国と同様、ハンガリーも宗主国ソ連に配慮して、非共産圏からの入国者にはヴィザの取得を義務付けていたが、そのヴィザを国内の空港の保税エリアで発行し始めたのだ。西側からの観光客は、パスポートだけを持って飛行機に乗ればよかった。ヴィザはハンガリーの空港に着いてから、簡単な書類に必要事項を記入して所定の手数料を支払えば、その場で、即座に、ほぼ無条件で取得することができた。そのため西側の人々にとってハンガリーは、「気軽に観光できる東欧の国」となり、多くの観光客が訪れて貴重な外貨をもたらした。
こうした奇抜とも思える独自路線はかなりの部分で成功し、ハンガリー経済は活気を帯びた。生活水準は向上し、人々の顔も明るかった。
10年もの長きにわたって無為の日々を過ごした後のユリアには、その明るさは眩しいほどだった。ザイコフはとうにこの街を去っていたが、絶望は感じなかった。針金のようにやせ細り、思うように歩くこともできないほど衰弱していた身体も、病院で治療を受け、約半年間のリハビリを経た後は、デスクワークに就ける程度にまで回復した。かつての経済大学のポストはもう無かったが、英語とドイツ語ができたので、外務省の末端部署で翻訳の仕事をすることになった。むろん「前科」のある身だから、重要な外交文書などからは遠ざけられ、もっぱら外務省が各国大使館に向けて配布する、毒にも薬にもならないPR記事を任されたに過ぎない。だが、その内容はハンガリーの歴史や食文化、伝統的な衣装や音楽など多岐にわたり、ユリアには外交文書などよりはるかに興味深い仕事だった。
また、モスクワから解放された時、同じ境遇にあった見知らぬ男性と言葉を交わして以来、あまり恐怖心なく人と話せるようにもなってきた。すると、自ずと街へ出ることも増える。ユリアの外見に奇異の目を向ける人々は、相変わらず少なくはなかったが、それらの人々も言葉を交わしさえすれば、大半は普通に応対してくれることが分かった。必要最小限だったユリアの口数は少しずつ多くなり、その顔に笑みが浮かぶことも次第に増えていった。